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杉山隆一が明かす釜本邦茂とのバチバチな関係、クラマーに学んだ「止める・蹴る」…“リフティングも知らなかった日本代表”が銅メダルを穫るまで
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byJIJI PRESS
posted2023/04/10 17:21
2005年、「日本サッカー殿堂」の第1回殿堂入りメンバーに選ばれ、釜本邦茂、デットマール・クラマーと談笑する杉山隆一(写真左)
当時のサッカー日本代表は家族同然だった
東京五輪後にクラマーは特別コーチを退任していたが、メキシコ五輪にはFIFA(国際サッカー連盟)の一員として会場に訪れていた。
3位決定戦の前に、クラマーは日本代表の控室にやってきた。
「銅メダルを持って帰れるかどうかで歴史は大きく変わる。日本には大和魂がある。私はまだ一度も見たことがないから、それを見せてくれ」
この言葉が選手たちの心を熱くした。それだけ選手とクラマーの間には厚い信頼関係が構築されていた。特別コーチに就任した当初、クラマーは文化や風習の違う若者たちの心をつかむため、来日したその足で選手の旅館に泊まり込み、それ以降は寝食を共にしていたという話もある。
杉山は「自分たちのために一生懸命だった。『私がうまく箸を使えるようになるのと、君たちがサッカーをうまくなるのと、どっちが早いか競争しよう』と話したのをよく覚えている」と懐かしそうに振り返る。
東京五輪からメンバーがほとんど変わらなかったことも大きかった。選手同士が個々の特徴を把握しており、役割が明確だった。杉山のスピードを生かすために、左サイドの前のスペースは必ず空けておく。釜本ですら、杉山の前に入ることは許されなかった。こうした決まりごとがたくさんあった。
「まるで家族同然だった。クラマーさんが父親で長沼(健)監督は母親。岡野(俊一郎)コーチは兄のような存在で、指導者にもそれぞれ重要な役割があったと思う。だからベンチも含めて、厳しい時間帯でも励まし合って戦うことができた」
「スギヤマがほしい、20万ドルでどうだ?」
杉山は国際大会で忘れられない思い出がある。クラマーに鍛えられた左足が輝きを放った東京五輪。その初戦、アルゼンチンを相手に何度もチャンスを演出し同点ゴールを決めるなど、勝利の立役者となった。
試合後、選手村に戻る途中にコーチの岡野に呼び止められた。
「おい、アルゼンチンからスカウトされているぞ」
「どういうことですか?」
杉山が尋ねると、岡野はアルゼンチンの監督エルネスト・ドゥチーニから「スギヤマが欲しい。20万ドルでどうだ」と言われたという。
「30万ドルなら考えてみてもいい」
岡野がそう返すと、ドゥチーニは眉間にしわを寄せた。