アスリート万事塞翁が馬BACK NUMBER
杉山隆一が明かす釜本邦茂とのバチバチな関係、クラマーに学んだ「止める・蹴る」…“リフティングも知らなかった日本代表”が銅メダルを穫るまで
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byJIJI PRESS
posted2023/04/10 17:21
2005年、「日本サッカー殿堂」の第1回殿堂入りメンバーに選ばれ、釜本邦茂、デットマール・クラマーと談笑する杉山隆一(写真左)
釜本邦茂とケンカ腰でぶつかり合った日々
クラマーの指導は厳しく、心が折れそうになったこともあった。そんな時、3歳下の釜本の存在が刺激になった。釜本が高校生の頃から噂には聞いていた。身長179センチと杉山より10センチも高く、パワーもあり、シュート力はずば抜けていた。「シュート練習を毎日200本はしていた」という話を本人から聞いて、ふつふつと闘争心がわいてきた。
「俺は釜本みたいにはなれないが、釜本も俺のようなプレーはできない。お互いの長所を出せば、いい相乗効果が生まれる」
連携を深めるため、杉山と釜本の間に「遠慮」の二文字はなかった。互いの要求をストレートに、激しくぶつけ合った。
「なんでリュウさん、いまパスを出さなかったの?」
「俺はドリブルをしている最中だ。出せるわけがない」
時にはケンカ腰で言い合うこともあった。
「パスをもらわないとシュートができない!」
「そんなことはわかってる。要求するのはいいが、こっちをよく見ろ。蹴れる体勢でないと無理なんだ」
「無理とはなんですか!」
「なんだと。おまえが逆の立場だったらどうだ!」
一触即発の状態は何度もあったが、お互いが遠慮なく言い合うことで、あうんの呼吸が生まれていった。クラマーが口癖にしていた言葉がある。「究極の連動性とは、センタリングが上がった後、FWが目をつぶっても得点できることを指している」。杉山・釜本のコンビの成熟度は、いつしかその究極の域に達していた。
1967年10月のメキシコ五輪予選は、釜本が4試合連続の計11得点。杉山は左肩を脱臼しながら、五輪への切符がかかった南ベトナム戦で決勝ゴールを決める。「アステカの奇跡」への道は、こうして2人が切り開いた。
メキシコ五輪で得点王になった釜本の7ゴールは、杉山のパスから決めたものが4点もあった。とりわけ、3位決定戦でメキシコから奪った2点は象徴的だった。杉山がDFの裏にフワリと出したボールを、釜本が胸トラップから左足のボレーで決めた先制点。さらに中央に切れ込んだ杉山からパスを受けた釜本が、トラップした瞬間に追加点となる右足シュートを突き刺す。「あの2点は、釜本と流した汗と涙の結晶だったと思う」。そう語る杉山の瞳は、かすかに潤んでいるようにも見えた。