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杉山隆一が明かす釜本邦茂とのバチバチな関係、クラマーに学んだ「止める・蹴る」…“リフティングも知らなかった日本代表”が銅メダルを穫るまで
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byJIJI PRESS
posted2023/04/10 17:21
2005年、「日本サッカー殿堂」の第1回殿堂入りメンバーに選ばれ、釜本邦茂、デットマール・クラマーと談笑する杉山隆一(写真左)
「その金額だと、私では判断できない。アルゼンチンに戻り、あるクラブと話してみる。交渉窓口を教えてくれないか?」
「日本はアマチュアだから日本サッカー協会だ」
岡野はそう答えたという。
当時、1ドルは360円。20万ドルは7200万円だ。巨人の長嶋茂雄と王貞治の推定年俸が1000万円台だった時代だけに、まさに破格の金額だった。
それ以来、「黄金の左足」「20万ドルの左足」と呼ばれるようになったが、アルゼンチンからのオファーの話は幻に終わる。プロになると五輪予選に出場できなくなり、日本代表にも選ばれなくなる可能性があった。そんな時代だった。
「あの時は海外でプレーするなんて思いもしなかった。でも今だったら、アルゼンチンで勝負していただろうね」
引退後は「ジュビロ磐田を作った男」に
日本に残った杉山はスター街道を突っ走った。日本リーグ優勝と天皇杯制覇に加えて日本年間最優秀選手賞も3度受賞し、30歳で日本代表を引退することを決意。杉山の本意ではなかったが、周囲は杉山の日本代表引退は特別なものとして異例の記者会見を設定したという。
最終的にユニホームを脱いだのは1973年。引退後はヤマハ発動機の監督を務め、チームを県2部リーグから日本一の座に押し上げるなど、「ジュビロ磐田を作った男」としてサッカー界に尽力してきた。
現場を離れて20年以上の時が経つ。最近、周囲から「日本のサッカー界は果たして成長しているのか」と聞かれることが多いという。杉山が安直に「こうだ」と断定することはないが、その答えを導き出すヒントは、カタールW杯での日本の戦いの中に隠されていると感じていた。
<つづく>
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