Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
「レスラーに引退はないんだろうけど…」蝶野正洋がデビュー25周年で告白した闘魂三銃士への思い「スタートが一緒だからライバルになれた」
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byToshiya Kondo
posted2023/03/06 17:02
武藤敬司のデビュー25周年興行にメーンで登場した蝶野正洋(2009年撮影)
岐阜県本巣市に、蝶野が「ゴッドハンド」と呼ぶ鍼灸・指圧師の坂井教仁が院長を務める千秀堂がある。ひじ、ひざを悪くしたこの時期、蝶野が千秀堂を訪れる回数は勢い増えることになる。
重度の椎間板ヘルニアで、治療のために渡航したアメリカ、ドイツの医師からは引退を勧告されていたほどの蝶野の首の状態を、奇跡的に回復させたのが坂井である。その後も蝶野は、体のメンテナンスのために、東京から岐阜鳥羽駅まで新幹線で毎月のように通った。坂井はケガと戦う蝶野をこの10年間、ずっと見守ってきたのだ。
「ひじやひざを手術しても、蝶野さんはいつもリングに早く戻ることを考えていましたね。どうやってストレッチをすれば首にいいか、ひざにいいかを聞いてきて……。人一倍、研究熱心なんです。椎間板ヘルニアでその後、長期離脱に追い込まれなかったのは、本人の努力があるからですよ」
生まれ変わっても「プロレスラーだろうな」
坂井には蝶野の忘れられない言葉がある。
「いつのことだったか忘れましたけど、治療しているときに『生まれ変わったらどんな職業がしたいですか?』と聞いたことがあるんですよ。そしたら蝶野さんは『プロレスラーだろうな』って言ってました。この人、よほどプロレスが好きなんだ、と思いましたね」
ケガでコンディションが下降線をたどるなか、蝶野は再び新日本のフロントと距離を置こうとしていた。
年ごとに社長が交代する上、猪木が株を売却。社内の混乱は収まらない。蝶野は取締役を数年で離れ、現場責任者という立場も、WJから新日本に復帰した長州力に預けた。
「付かず離れず」のポジションに戻り、蝶野は最前線から一歩退いて、裏方に目を向けるようになっていた。ビッグイベントの激減、選手のリストラ、年俸抑制……。新日本プロレスだけでなく、プロレス全体の存続の危機だ。蝶野は、また別の面から改革を図ろうとした。
新日本から興行権を買い取り、プロモーターに
蝶野は、2007年3月に千葉・幕張メッセで行なわれる興行権を新日本から買い取った。プロモーターとなったのだ。プロレスの興行には“手打ち”は団体が主催し、“売り”はプロモーターが興行権を買い取る形だ。“売り”であれば、興行が失敗したとしても団体にほとんどリスクはない。リスクを負うのはプロモーターになる。
レスラーがプロモーターになるのは、大体がレスラーの地元であったり、レスラーにゆかりのある地域で興行を行なう場合である。だが、蝶野は敢えて何のゆかりもない千葉を選んだ。その理由をこう説明する。