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千代の富士の“恐怖”「なぜ腕立て伏せ1日500回をノルマにしたか?」左肩脱臼、右腕大ケガ…伝説の横綱が明かした“苦手な力士11人の名前”
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byGetty Images
posted2023/02/28 17:02
令和になっても、人気が衰えない“伝説の横綱”千代の富士(写真は1983年の九州場所(11月場所)で)
このうち隆の里には、横綱昇進以降、6勝11敗と負け越している。横綱になってからの初黒星も隆の里からだった。1981年の秋場所2日目のこの取組で、痛めていた左足首をさらに悪化させてしまい、翌日から休場を余儀なくされる。休場明けの九州場所では横綱となって初優勝を果たすも、このときも隆の里に敗れ、翌1982年秋場所までじつに8連敗を喫した。
『綱の力』では当時を振り返り、《原因は自分の相撲に課題があったわけで、負けて研究し、また負けてまた研究し直した。しかし、それ以上に相手は私を研究していたという。それではなかなか勝てなかったわけだ》と書いている。
隆の里は、自分が上位にあがるには千代の富士を破らねばならないと思って以来、研究に研究を重ねた。本場所のビデオをテープがすり切れるほど見て、巡業中にもなるべく千代の富士のそばにいて観察し、さらにその物の考え方も知りたくなって趣味嗜好や読む本まで調べあげたという。そうやって集めたデータにもとに作戦を練ったのだった(『私はかく闘った』)。その努力のかいあって隆の里は1983年に念願の横綱となる。糖尿病を克服し、当時ヒットしていた朝ドラにちなんで「おしん横綱」と称された隆の里だが、忍耐の人であるとともにじつは頭脳派でもあったのだ。
53連勝で止まった日
千代の富士の全盛期は、力士の大型化が進んだ時代でもあった。先に名前の挙がった小錦、大乃国、双羽黒らの台頭で幕内平均体重は150キロ台に突入、そのなかにあって千代の富士は体重120キロ台(身長は183センチメートル)の小兵として立ち回らなければならなかった。
ノンフィクションライターの武田葉月が歴代の横綱たちから聞き書きした『横綱』(講談社、2013年/講談社文庫、2017年)で、千代の富士はこんなことを語っていた。