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若き武豊は「メジロマックイーン降着事件」をどう乗り越えたのか? 初代番記者が明かす天才騎手のルーツと“進み続ける力”〈4400勝達成〉 

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片山良三

片山良三Ryozo Katayama

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2023/02/04 17:18

若き武豊は「メジロマックイーン降着事件」をどう乗り越えたのか? 初代番記者が明かす天才騎手のルーツと“進み続ける力”〈4400勝達成〉<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

JRA通算4400勝を達成した武豊の若手時代(1991年撮影)。栄光だけでなく多くの苦難を乗り越えて、現在も前人未到の記録を更新し続けている

 1カ月間の函館出張中に、何度食事に連れて行ってもらったことか。当時すでに80代を迎えていたはずだが、酒席では女性を相手に年齢を大幅にサバ読みする茶目っ気も発揮されて、明るいお酒を大いに楽しませていただいた。

 武家のルーツは、薩摩藩士園田実徳にさかのぼることができる。戊辰戦争、西南戦争などに参戦した歴史上の人物だ。北海道出征中に重傷を負い、現地で療養生活に入るとともに北海道開発の要職に就いたのだという。園田実徳の弟・彦七が武家に養子に入り、函館競馬の開催に力を尽くしたというのだから、運命的なものを感じずにはいられない。彦七は、兄が函館市の郊外に興した牧場を経営し、その地区の馬産に重要な足跡を残した人だった。ちなみに芳彦じいちゃんは、彦七の長男にあたる。

アメリカで現役時代のサンデーサイレンスと遭遇

 その'89年の夏の終わり、武豊は米国へ2週間の武者修行に出て、それに私も同行した。シカゴ郊外のアーリントンパーク国際競馬場を皮切りに、西海岸へ飛んでロサンゼルスのハリウッドパーク競馬場、サンタアニタパーク競馬場の見学を挟み、最後にサンディエゴ郊外のデルマー競馬場を回るツアーだった。同年春の天皇賞をイナリワンで勝利した(そのうえ宝塚記念まで勝った!)ご褒美で、保手浜弘規オーナーが全てをプロデュースした初の米国行きだった。

 現地のメディアがひっきりなしに取材に訪れたが、そのたびに「勉強に来たんじゃありません。日本のジョッキーの代表として、アメリカと戦いに来ました」と、デビュー3年目でも前年に関西リーディングジョッキーを勝ち取った者としての誇りを前面に押し出しての応対だった。「どうだ、アメリカはすごいだろう」という口調で攻め立ててくるメディアに対して、一歩も引かない姿勢が実に頼もしかった。

 保手浜オーナーが所有馬を預託していたアーリントンパークのカール・ナフツガー厩舎では、デビュー前の2歳馬の追い切りにも乗せてもらったのだが、そのときだけはなぜか負けたという顔で帰ってきた。そして「アメリカの馬はやっぱりすごい!」と、残念そうな感想。実は、その2歳馬はのちに'90年ケンタッキーダービーを勝つアンブライドルドで、父と母の名前をしっかり覚えていた武豊は、「アメリカの馬がすごいんじゃなくて、あの馬がすごかったんだ」と、1年後に安堵したものだ。

【次ページ】 「メジロマックイーン降着事件」の裏側

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