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若き武豊は「メジロマックイーン降着事件」をどう乗り越えたのか? 初代番記者が明かす天才騎手のルーツと“進み続ける力”〈4400勝達成〉
text by
片山良三Ryozo Katayama
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2023/02/04 17:18
JRA通算4400勝を達成した武豊の若手時代(1991年撮影)。栄光だけでなく多くの苦難を乗り越えて、現在も前人未到の記録を更新し続けている
GI初勝利という殊勲を遂げたばかりだけに祝福ムードは当然だが、すれ違う全ての人から声がかかり、それに対して一つ一つ丁寧に頭を下げて応える謙虚さ、初々しさにも感心させられた。正真正銘のスター候補がそこにいる、と実感した。
「武家での朝食」で感じた番記者の重み
祝福の輪に一段落つくのを確認して、昨日の電話取材のお礼を述べに近づいて行くと、武邦彦調教師が音もなく現れて、「東京から来たのなら、朝飯はウチに来て食べればいいよ」とおっしゃっていただいた。まさに夢のような展開で、その数時間後には、武邦彦、洋子夫人、武豊、小学生だった幸四郎という4人の輪の中に入って朝御飯をごちそうになっている私がいた。
朝食のテーブルは、洋子夫人が快活に場を仕切ってくださり、男たちは笑顔で軽く相槌を打つ雰囲気。邦彦、豊の二人は調教時の乗馬ズボンのままだったのがなぜか印象に残っている。チャマという名のミニチュアダックスに歓迎されたことも印象点を上げたようで、私はそのときに武豊番記者になれた実感が来てうれしくなった。しかも、それが初代の番記者なのだと気づいて重みも感じていく。
武豊の競馬学校時代の教官、真家眞さん(のちに栗東トレセン場長、京都競馬場長)にもお話を伺い、「必要なこと以外はしゃべらない子で、どちらかといえば地味な生徒でした。でも、やるべきことはきっちりやる子なので、同級生の人望を集めていましたね」という貴重な証言をいただいた。邦彦調教師もよけいなことは一切言わない人で、勝負事を仕事にしながらその結果に一喜一憂しない大きさが周囲に安心感を与え、それが人望につながっている。DNAが伝えた長所と言うべきなのだろう。武豊自身は、「父に感謝するところは、騎手として何をしなくてはいけないのか、何をしてはいけないのかを自然に教えられたことです。口で言って教えられたのではなく、手本を見て自然に身に付けられたのは、振り返ってみて、どれほど大きかったか」と、29回にわたり続いた連載記事の中で語っている。「男は黙ってサッポロビール」のCMに起用されたこともある武邦彦だが、その通り、背中だけで息子たちの立派な手本になっていたことがわかる。
源流は薩摩藩士…「武家のルーツ」とは
翌'89年、函館競馬場に出張したときのことだ。記者席に珍しい訪問客がお見えになった。いただいた名刺には「北海道公営馬主会 武芳彦」とあって、思わず背筋が伸びた。改めてお顔を拝見すると、武家伝統のタレ目の笑顔がそこにあった。「孫がいつもお世話になっているようで」という言葉で武邦彦先生のお父様であることを確信して、何度も何度も頭を下げまくったのが昨日のことのようだ。