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若き武豊は「メジロマックイーン降着事件」をどう乗り越えたのか? 初代番記者が明かす天才騎手のルーツと“進み続ける力”〈4400勝達成〉 

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片山良三

片山良三Ryozo Katayama

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2023/02/04 17:18

若き武豊は「メジロマックイーン降着事件」をどう乗り越えたのか? 初代番記者が明かす天才騎手のルーツと“進み続ける力”〈4400勝達成〉<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

JRA通算4400勝を達成した武豊の若手時代(1991年撮影)。栄光だけでなく多くの苦難を乗り越えて、現在も前人未到の記録を更新し続けている

 デルマー競馬場でも歴史的な出会いがあった。その年のダービー馬にしてクラシックのスター、当時3歳のサンデーサイレンスが夏休みがてらデルマーに滞在していて、厩舎の周囲を引き運動している場面を目撃したのだ。日本にも名声が聞こえるチャールズ・ウィッティンガム調教師が、馬服を小脇に抱えて運動に付き添っているのが印象的だった。武豊と一緒に、最新のケンタッキーダービー馬を目の当たりにできたことを単純に喜んだが、のちにこのサンデーサイレンスの産駒に乗って、最も数多くの勝ち鞍をあげる騎手となるのだから、出会うべくして出会ったとも考えられる。そもそも、たった2週間の滞在で、ダービー馬と翌年のダービー馬に出会える人など、武豊のほかにいるはずがない。持っている、というのはまさしくこの人のことだ。

「メジロマックイーン降着事件」の裏側

 順風満帆を絵に描いたように見える武豊の騎手人生だが、当然のこととしてつまずきは大小あった。中でも精神的に最もきつかったのは、'91年の秋の天皇賞だったと思われる。大本命馬メジロマックイーンを駆って、6馬身という決定的な差をつけての1着ゴールから、最下位の18着に降着した事件だ。サンスポ競馬記者だった私は、武豊のヒーロー原稿を書くために検量室前へ駆け下りたが、室内の雰囲気はまさに異様だった。そのざわめきから、メジロマックイーンが最初のコーナー(特異な形状の2コーナー)を内側に切れ込むように回ったタイミングが早く、後続馬が大きな影響を受けていることがわかった。

 被害を受けた騎手が入れ替わり立ち替わり裁決室に呼ばれ、審議のランプは長い時間灯ったまま。最後に武豊が呼ばれ、すぐに顔面蒼白となって出てきた。しかも勝負服を脱ぎ捨ててしまったことで重大な事件が起きたことが誰の目にも明らかになった。降着が場内アナウンスによって発表されたのは、ゴールから20分という異例の長時間が経過したあとのこと。ヒーロー原稿を書くはずだった私の役目は、急遽武豊以外の17人のジョッキーから証言を集める仕事にかわり、ジョッキールームへ続く長い地下道を何度も往復した。

 意外なことに、降着処分を「厳し過ぎる」と言うジョッキーは皆無で、岡部幸雄の「落馬がなかったのが不幸中の幸いというだけ。武豊君も弁解の余地はないだろう」という声を代表として、最も大きな影響を受けた本田優の「救急車に乗っていないのが不思議なくらい。豊ほどの男がなぜ焦って内へ切れ込んで行ったんだろう」といった批判的な意見が大勢を占めた。多くのファンから武豊の兄貴分と思われていた松永幹夫までが、「あれがセーフなら、これから怖くて乗れなくなる。豊は早く勝つ形を作りたかったんだろうけど、軽率だったね」と、擁護の声を出すことはなかった。それほど、当事者たちは怖い思いをしたということだ。

【次ページ】 ギクシャクしたマスコミとの関係…武豊が開いた扉

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