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「野村克也自身がささやきの被害者だった」江本孟紀75歳が力説する“逆説のノムラ論”「大記録の陰に“逆説的野村再生工場あり”」
text by
江本孟紀Takenori Emoto
photograph byTakuya Sugiyama
posted2023/02/11 11:00
時に冗談を、時に野球談義を交わしてきた野村克也と江本孟紀。エモやんが明かす「本当の野村克也」とは――
まじめで練習熱心な小山さんは、コントロールと下半身の関係、そのためのランニングの重要性をことあるごとに説いた。また、私生活の乱れをきらい、若き村田兆治の朝帰りを叱咤し、それをきっかけに村田は心を入れ替え、200勝投手に上り詰めた話は有名だ。
残念なことに現役時代の小山さんと話をする機会はなかったが、あの優雅なフォームは高校時代からのあこがれだった。
王さんに本塁打を打たれた小山さんは、その対策としてパームボールを覚えて抑えることに成功する。僕も阪神時代には、小山さんと自分を重ね合わせて、王さんには打たれまいと頑張ったものだ。
ストイックな大投手・鈴木啓示
下半身の強化と規則正しい私生活。どうやらこれが大投手の共通点のようだ。
通算317勝・歴代4位の実績を持つ鈴木啓示は、先発の日もバンバン走ったし、いつ見てもランニングをしていた。
1976年、後楽園球場に日本で初めて人工芝が導入される。鈴木がいた近鉄の本拠地・藤井寺球場も1985年に外野だけ人工芝になった。
1985年は彼の現役最後の年だが、人工芝は足腰に悪いと言って藤井寺球場ではランニングを控えた。その代わり、遠征先の球場が天然芝だと、たとえ先発登板した翌日でもチームに帯同して走った。
新人のとき、先輩に振り回される合宿所の生活は野球にマイナスになるといい、ひとり暮らしを始めたという。そういうマイペースでストイックな性格も大記録を生む要素だ。
しかし監督になると、自分を築き上げたランニングのあり方をめぐってコーチと衝突し、その性格がもとでチームを乱してしまう。皮肉なものだ。
あいつが勝てなくなったのは、俺が全部研究したからや
鈴木は1967年から5年連続で20勝以上挙げていたが、急に10勝台に低迷する。そして、それまでのブワーッと振りかぶって高く足を上げる大胆なフォームから、いきなりノーワインドアップで投げ始めた。