アスリート万事塞翁が馬BACK NUMBER
「あなたは本当にヒロシマから?」原爆投下の6年後、“アメリカ”を知った田中茂樹のボストンマラソン前夜「こんな国の人に勝てるわけが…」
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byShigeki Tanaka
posted2023/01/03 06:04
1951年のボストンマラソン優勝後、ヤンキースのジョー・ディマジオと握手する田中茂樹。彼が体験した“アメリカ”は想像とは異なっていた
初めて見たフィギュアスケートで吹き飛んだ重圧
選手たちはボストンに乗り込み1週間もすると、少しずつ生活に慣れてきたが、それでもまだ不安は消えていなかった。日本人が経営するアパートを借りた宿舎で、夜になると選手たちは声を潜めて話し合った。
「アメリカ人が優しく接してくれたのには驚いたが、もし負けたらどうなる? やはり捕虜になってしまうのか?」
「そうだな。4人の中で誰でもいいから優勝しないと、ひどい目に遭うだろうな」
大会が近づくにつれ、選手たちは初めて経験する重圧に押しつぶされそうになっていた。そんな気持ちを察した岡部は大会2日前、朝のミーティングでこう話した。
「今日の昼、フィギュアスケートという競技がある。いろんなスポーツを観るのも勉強になるぞ。行きたい者はいるか?」
誰も反応しない中で、田中だけが手を挙げた。
「私は行きます。ぜひ観てみたいです」
「じゃあ、付添人と一緒に行きなさい」
フィギュアスケートの会場に着くと、田中はスタンド席に座った。競技はすでに始まっていて、女子選手が氷の上で飛び跳ねたり回転したり滑ったりしていた。
「これは何をやっとるんですか?」
初めて見る光景に驚いた田中は、付添人の男に訊いた。
「氷の上での演技に、審判が点数をつけて競う競技です」
田中はいきなり唸り声を上げた。
「うぉぉぉ! これはまるで舞子さんが舞っとるようじゃ」
うっとりと見つめる田中は、興奮しすぎたせいか、いつの間にか鼻血を流していた。
「あれでもう緊張は吹っ飛んだ。アメリカは想像していたのとは全然違ってスケールが大きいし、素晴らしい国だと思った」
田中を縛り付けていた敵対心や警戒心は消え、プレッシャーからも解き放たれていた。晴れ晴れとした気持ちで、運命のスタートラインに立った。
<#3へ続く>