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「あなたは本当にヒロシマから?」原爆投下の6年後、“アメリカ”を知った田中茂樹のボストンマラソン前夜「こんな国の人に勝てるわけが…」
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byShigeki Tanaka
posted2023/01/03 06:04
1951年のボストンマラソン優勝後、ヤンキースのジョー・ディマジオと握手する田中茂樹。彼が体験した“アメリカ”は想像とは異なっていた
不思議なのは、練習メニューだけでなかった。田中は合宿の時の食事を思い起こす。
「すき焼きが出て驚いていると、岡部さんは『疲労回復には食事と睡眠が一番だ。食え食え』と笑っていた。根性論や精神論ばかりの時代で、そんなことを言う人は初めてだった」
合宿に入ると、岡部は選手の疲労度に関する科学的調査を実施した。炭鉱労働者の労働環境を調査していた三井山野炭鉱(福岡県嘉麻市)の研究所に協力を依頼して、選手が走る前後の尿や血液、呼気を採取して調べた結果、マラソンで1時間半を走る疲労度は、炭鉱労働で最も激務だった木材運搬に匹敵することがわかった。
そのことを踏まえて、岡部はすき焼きなどカロリーの高い食事を選手に食べさせたのである。こうした指導の下、「優勝する会」ではすべての練習や食事が、科学的見地に基づいて行われた。
「なぜ、アメリカで走らないといけないんですか」
選手の力は如実に伸びていった。年が替わった1951年2月4日、ボストンマラソンの選手選考会を兼ねた大会が山口市で開催され、田中が見事な走りで優勝した。しかも2時間28分16秒の日本記録である。戦前の1936年、ベルリンオリンピックで孫基禎(日本統治時代の朝鮮出身)が金メダルに輝いた2時間29分19秒を上回る驚異的なタイムだった。
この結果、ボストン派遣選手は田中を含め、小柳舜治、拝郷弘美、内川義高の4人に決まった。監督に選ばれた岡部は「アメリカの伝統のある大会を制して、敗戦で打ちひしがれた日本人の誇りを取り戻す」と意気込んだ。
ただ、戦後間もない時代、選手は不安に駆られていた。田中は岡部とこんな会話を交わしたことを覚えている。
「岡部さん、なぜ、アメリカで走らないといけないんですか。戦争で戦ったアメリカでレースをするなんて、敵国に乗り込むことと同じですよ。それは我々が捕虜にされることを意味しているんじゃないですか?」
「心配するな。私はアメリカに留学して生活をしていたんだ。君らが思っているような国ではない。それに監督、コーチの仕事というのは、各選手のコンディションを最高に保ち、大事な一発勝負で悔いを後に残さない完全なレースをやらせることだ。それを私が責任を持ってやる。君たちは、ただ走ることに専念すればいい」
この言葉の意味を、田中はボストンに乗り込んで実感することになる。