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中村俊輔との出会いが名将・佐熊裕和の指導を変えた? 熱血先生が“教えないこと”に気づいた瞬間〈新潟から11人Jリーガー輩出〉 

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安藤隆人

安藤隆人Takahito Ando

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posted2022/10/28 11:06

中村俊輔との出会いが名将・佐熊裕和の指導を変えた? 熱血先生が“教えないこと”に気づいた瞬間〈新潟から11人Jリーガー輩出〉<Number Web> photograph by Takahito Ando

2018年の人工芝グラウンド完成時に母校・桐光学園に駆けつけた中村俊輔。佐熊氏と言葉をかわした

 選手のプレーやアイデアを否定するのではなく、まず肯定する。必要な時に必要な分だけ言葉をかける。彼らの発想や自分で考える力を奪わないことが、指導者にとって最も重要なのではないか。当時の佐熊のサッカーノートには「余白をもたせること」と書かれている。

「たとえば選手に“10”教えようと思っても、その選手によって才能や現在地、キャパシティーはさまざまです。だから『この選手は“4”まで言おう』『この選手は“6〜7”まで言ったほうがいいかな』と全てを伝えきらない。つまり、余白をもたせるようになりました。俊輔の場合は“2”ぐらい。問いかけも『俺はこう思うけど、どう?』という感じです。俊輔はそれでも(アイデアや意見を)10どころか20も30も返してきますから。指導者にとって“教えないこと”は勇気がいるのですが、それを確信させてくれたのが俊輔でした」

 桐光学園は中村が高3時にインターハイベスト4、そして選手権準優勝と大きな成果を残した。その後も藤本淳吾、本田拓也、鈴木孝司、福森晃斗ら多くのJリーガーを輩出。すべて佐熊のもとで、考える力を身につけてプロの道まで登りつめた門下生である。

サッカー部を教え子に譲り、中国リーグへ

 高校サッカー界で実績を残した佐熊は、指導者としてさらに高みに進むために桐光学園を離れる決断をする。

「そのまま定年することも選択肢にありました。でもやっぱりもっとサッカーを突き詰めたいと思ったので、環境を変えました」

 13年に小川航基とイサカ・ゼイン(ともに現・横浜FC)を入学に導いたタイミングでサッカー部を教え子の鈴木勝大に譲り、すでに取得していたS級ライセンスを携えて、同年に中国サッカー・乙級リーグ(3部相当)の梅県客家足球倶楽部の監督に就任した。

 中国では文化の違いから苦労の連続だったというが、シーズン最後には2部昇格寸前までチームを引き上げた。翌14年には契約延長のオファーをもらい、さらには中国の他クラブやイタリア、Jリーグの下部組織からも誘いがあった。そんな中で佐熊が新天地として選んだのが、アルビレックス新潟と提携関係にあった新潟医療福祉大だった。

【次ページ】 “新潟”で徹底した選手との会話

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