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“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
中村俊輔との出会いが名将・佐熊裕和の指導を変えた? 熱血先生が“教えないこと”に気づいた瞬間〈新潟から11人Jリーガー輩出〉
posted2022/10/28 11:06
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
Takahito Ando
佐熊裕和(58歳)は、新潟医療福祉大サッカー部の監督として9シーズン目を迎えた。
監督就任以降、北信越大学リーグの優勝は5回。来季入団の2人を含めると11人ものJリーガーを輩出し、今年の総理大臣杯では全国ベスト8入りを果たした。かつて無名だった桐光学園高校を全国常連校に育て上げた手腕そのまま、低迷していた同大学を北信越ナンバーワンの強豪に成長させてきた。
佐熊のキャリアを振り返るには、やはり中村俊輔の存在なしには語れないだろう。本人の言葉を借りれば「中村俊輔“以前”と“以後”」。稀有な才能との出会いは指導者人生にとって大きな分岐点となった。
“バンカラ高校”をサッカー強豪校へ
東京都出身で、本郷高校から日本体育大に進学した佐熊は、日本リーグでのプレーを目指していたが、右膝の半月板を除去するなど、怪我に苦しんだことで教員の道に進んだ。日体大のほど近くに位置し、たまたま教員の募集をしていたのが桐光学園だった。決してサッカー部を強くするために採用されたわけではなく、単に「経験者だから」という理由で顧問に就任。神奈川県教員チームの一員としてプレーも続けながら指導者人生をスタートさせた。今から36年前、1986年のことである。
「当時は学校の偏差値も低くて、バンカラ高校だったんですよ。生徒たちはよく隣の高校と喧嘩をして、いろんな方面に謝りに行ったこともありました。そもそも桐光学園での教員をそんなに長くやるつもりはなくて、2、3年やってそこから次の道を考えようと思っていました」
だが、その年の秋、理事長のひと言で流れが変わる。
「サッカー部を強くしたいから推薦の枠を確保する。条件は5年で全国大会に出ること」
覚悟を決めた佐熊は、その翌日に大型免許を取りに行った。大型バスを運転して全国行脚をするためだった。さらに神奈川県教員チームも辞めてサッカー部の指導に注力する。
20代の血気盛んな指導者は選手獲得に奔走しながら、プレーヤー時代の経験を軸にチームを成長させていく。練習は厳しさを増し、当初は部員の反発もあったというが、“約束の5年目”でインターハイ県予選で準優勝を果たして初の全国大会となるインターハイ出場を決めた。
「予選準決勝は大雨。うちのDFの大きなクリアボールに対し、前に飛び出した相手GKがツルッと滑って転んでくれたことでそのままゴールに入った。ラッキーですね。これで首の皮が一枚繋がったということです」