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“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
中村俊輔との出会いが名将・佐熊裕和の指導を変えた? 熱血先生が“教えないこと”に気づいた瞬間〈新潟から11人Jリーガー輩出〉
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2022/10/28 11:06
2018年の人工芝グラウンド完成時に母校・桐光学園に駆けつけた中村俊輔。佐熊氏と言葉をかわした
日大藤沢や桐蔭学園などの強豪校の後塵を拝する状況が変わったのは、1993年のこと。須藤大輔(現・藤枝MYFC監督)、鈴木勝大(現・桐光学園監督)、宮澤崇史(現・横浜創英監督)らが入学し、翌年には中村、佐原秀樹、さらに95年には井手口純(現・新潟医療福祉大ヘッドコーチ)ら実力者が集まったことで、「桐光学園」の名は全国に知れ渡ることになった。
「そんなに指導経験があったわけではなかったから、『こうすればこうなる』ということがはっきりわからない手探りの状態でした。だから、俊輔という才能を目の当たりにできたことはとても大きかったですね」
当初は体が細かったこともあり、佐熊は中村をすぐに試合で起用することはなかったが、当時から技術はずば抜けていた。やがて身長がグッと伸びたことを機にフィジカルが向上。高2の関東大会予選で、中村を初めてトップチームのベンチに座らせた。
点差が開いた試合ではあったものの、途中出場した中村はいきなり存在感を発揮する。ファーストプレーこそ相手のフィジカルに潰されたが、相手との間合いに慣れると次元の違うプレーをいくつも見せつけた。
「私が考えているプレーの2段上、3段上をやるようになったんです。ノールックパスなんていとも簡単に通すし、『そこに出すの?』と思うパスを長短関係なくバンバン通すんです。試合に起用する度に『次はどんなプレーをするんだろう』とワクワクしている自分がいましたね」
指導者・佐熊が悩んだ理由とは?
チームが一定の結果を残し始めた時、指導者には「自分の考えが正しい」という自信やプライドが芽生えるものだ。だが、自分の想像を超えるプレーやひらめきを見せつけられた佐熊は悩んだ。これまでは、ライセンス講習で受けた知識や勉強して得たセオリーを選手たちに伝え、そこから逸脱する選手には容赦なく軌道修正してきた。しかし、果たしてそれは本当に選手のためになるのだろうか。
指導を見つめ直した佐熊は、ある考えに行き着く。
「すでに俊輔は自分の器よりも数段上のサッカー観と人間力を持っていました。自分が教えようと思っても教えられないと感じたんです。ある程度『こうじゃないか』とは言ったとしても、基本的には彼自身に考えさせてやらせるべきなんじゃないか。もちろん、指導者としての物足りなさはありましたが、自分の考えを押し付けることはエゴであって、俊輔のためにならない。
それは俊輔だけじゃない。なまじ社会人1年目まで現役でプレーしていた分、選手たちに対して『なんでこんなことができないの?』という思いが常に頭にあった。自分の価値観を押し付けるような指導をしてきた自分に気づかされたんです」