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「猪木寛至17歳」が力道山に出会った瞬間、“奴隷同然”な過酷労働…ブラジルで発掘した新聞と証言で知る「アントニオ猪木になるまで」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2022/10/24 17:04
来伯した力道山と猪木が会ったことを伝える当時の「サンパウロ新聞」
「諦めていた夢が、向こうからやってきた。こんなことがあるんだ」
もちろん、寛至に異存はなかった。しかし、母文子は息子の日本行きに反対した。
「当初の苦労を乗り越えてやっとまずまずの生活ができるようになったのに、それを捨てて一人で日本へ帰って大丈夫なのか、と考えたようです。でも、本人は大乗り気で、他の兄弟も皆、賛成。最後は母も折れました。
私は兄が大好きだったので、離れ離れになると思うと悲しかった。でも、兄の将来のためだから仕方がない。涙の別れをしました」(佳子さん)
日本とブラジルという“2つの母国”を持つからこそ
1960年4月4日、寛至はアメリカ経由で東京へ向かう飛行機に乗り込んだ。ブラジルへは船で渡っていたから、飛行機に乗るのは生まれて初めてだった。
東京に着くと、力道山の付き人をしながら練習に励み、この年の9月30日、猪木寛至の本名でデビューする。そして、この年11月9日の試合からリングネームをアントニオ猪木に変えた。
1963年末に恩師・力道山が赤坂のナイトクラブで暴漢に刺されて死亡するという悲劇を経て、1964年、アメリカへ武者修行に出る。確かな実力を付けて1966年に帰国。ジャイアント馬場と共に日本のプロレスを代表するスーパースターとなり、そのことが政治家、実業家としてのキャリアにもつながっていった。
これらすべては、1960年のブラジル・サンパウロでの力道山との邂逅から始まったのだった。
日本とブラジルという地球の正反対に位置する“2つの母国”を持っていたからこそ、あれだけ世界的、そして多角的な視点を持ち、キューバ、ソ連、パキスタン、イラン、イラク、北朝鮮といった決して一筋縄ではいかない国々の政府関係者を相手に大胆不敵な“個人外交”を繰り広げることができたのだろう。
今から62年前、力道山がブラジル興行の最後にサンパウロで少年猪木と出会ってスカウトし、日本へ連れ帰る際、「猪木は有望だと思う。鍛えれば一流のレスラーとして檜舞台に君臨できる」と語った。この予言は、見事なまでに、いや予言を遥かに超えるスケールで実現した。
アントニオ猪木はスポーツと政治と実業の世界で、生涯を通じて「ストロング・スタイル」を貫き通した稀有な日本人にして地球人だった。
<#1、#2からつづく>