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「猪木寛至17歳」が力道山に出会った瞬間、“奴隷同然”な過酷労働…ブラジルで発掘した新聞と証言で知る「アントニオ猪木になるまで」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byHiroaki Sawada

posted2022/10/24 17:04

「猪木寛至17歳」が力道山に出会った瞬間、“奴隷同然”な過酷労働…ブラジルで発掘した新聞と証言で知る「アントニオ猪木になるまで」<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

来伯した力道山と猪木が会ったことを伝える当時の「サンパウロ新聞」

「綿花作りはうまくいかなかったんですけど、このときに撒いた肥料がちょうどいい塩梅で農地に残っていたらしく、落花生栽培はうまくいきました。ブラジル全体では不作だったので、余計に高く売れたそうです。

(資金を得たタイミングで)家族会議を開き、以後どうするかを話し合ったんです。その結果、元々、横浜育ちで田舎にも田舎の生活にもなかなか馴染めなかったこともあり、サンパウロへ出ることにしました。有り金を叩いて家を買い、兄たちは知人の紹介で市内の青果組合で働くことになりました。穀物などが入った重い袋を運ぶ肉体労働です」

寛至は体が大きくて力が強かったから…

 このときサンパウロへ移ったことが、寛至に望外の運をもたらすことになる。

 日本人移住者の多くがサンパウロ州の奥地などで農業に従事していたこともあり、青果市場では多くの日本人、日系人が働いていた。

 当時、サンパウロの青果市場で店を経営していた北海道出身の田所功さんも、猪木を知る1人である。

「当時、私は市場の中に自分の店を持っていた。寛至は体が大きくて力が強かったから、かなり目立っていた。私の店へもよくやってきて、『荷物運びの仕事はありませんか』と御用聞きに来ていた」

 この頃、ブラジルの日系社会では野球、柔道、水泳、空手、相撲、陸上競技などのスポーツを愛好する人が多かった。陸上競技では、まず日系人大会が開かれ、その上位入賞者がブラジル選手権に出場した。

 猪木家では、四男・快守は長距離が得意で、日系人大会で抜群の強さを発揮していた。ブラジル選手権でも見事な成績を収めていた。兄に倣って寛至も陸上競技を始めたが、走るのはあまり得意ではなかったので、砲丸投げ、円盤投げ、やり投げなどの投擲競技を選んだ。仕事が終わってから一人で練習するうち、次第に記録が伸びていった。

 こうして、兄弟は少しずつブラジル日系社会で名を知られる存在となった。

「諦めていた夢が、向こうからやってきた」

 力道山は、戦後日本のスーパーヒーローだ。1940年から50年まで大相撲の力士として関脇まで昇進した後、プロレスラーに転向。1951年にデビューし、欧米人の巨漢レスラーを空手チョップで次々となぎ倒した。その姿に、敗戦で意気消沈していた日本人は快哉を叫んだ。

 1958年11月、ブラジルへ遠征し、日本人、日系人が多く住むサンパウロと州内各地を巡回して大成功を収めた。そして、1960年3月初めから4月初めまで二度目の興行を行なった。その際、サンパウロ在住のファンが寛至のことを話したところ、力道山が興味を持った。

 青果市場で働いていると聞いて市場を訪れ、寛至と対面した。「裸になれ」と言ってシャツを脱がせ、「背中も見せろ」と言って上半身の筋肉を確かめてから、「おい、日本へ行くぞ」と怒鳴った。

 寛至は、かねてから憧れていた力道山が突然目の前に現われ、しかも自分を弟子にしてくれるという予想外の展開に、ただただ驚いていた。

 力道山が日本へ帰国するわずか数日前のことだった。

【次ページ】 日本とブラジルという“2つの母国”を持つからこそ

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