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「猪木寛至17歳」が力道山に出会った瞬間、“奴隷同然”な過酷労働…ブラジルで発掘した新聞と証言で知る「アントニオ猪木になるまで」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2022/10/24 17:04
来伯した力道山と猪木が会ったことを伝える当時の「サンパウロ新聞」
「さんとす丸」でやってきた日本人7家族がサンパウロの北西約500kmにある地方都市リンスで列車を降り、さらにトラックに揺られてスイス農場へ到着した。彼らはこの農場と1年半の労働契約を結んでおり、コーヒーの実を摘むことになっていた。
「労働と生活の条件も、奴隷同然だった」
農場主が彼らの日本からブラジルまでの旅費を負担しており、契約期間を全うしないまま農場を去ることは厳しく禁じられていた。周囲は銃を持った警備員が巡回しており、仕事のつらさに耐えかねて脱走した労働者が銃殺された例もあった。
「簡単に言えば、奴隷制度に近いシステム。労働と生活の条件も、奴隷同然だった」(片山さん)
猪木家と片山家は、農場からほど近い粗末な小屋を割り当てられた。べニヤ板で仕切っただけの同じ小屋に住んだ。
その翌日から、過酷な労働の日々が始まった。
朝5時に起床し、簡単な朝食を取ると、男たちは歩いて近くの農場へ向かう。女たちは、食事の準備、洗濯などの家事を担当した。
コーヒーの木になっている実を、高所にある場合は脚立に登って摘む。実は非常に固く、もぎ取るのは容易ではない。軍手をはめていてもすぐにボロボロになり、やがて手が血だらけになる。それでも、手を休めることは許されない。
気候条件も、非常に厳しい。早朝は涼しいが、次第に気温が上がり、午前中に摂氏40度を超える。汗だくになって働き、正午に粗末な昼食を掻き込むと、それからまた夕方5時まで仕事を続けなければならない。以下、片山さんと佳子さんの証言である。
「当時は僕も寛至も若かったけれど、それでも一日の労働が終わると疲労困憊した」(片山さん)
「仕事が終わって兄たちがシャツを脱ぐと、汗の塩気でシャツが固まるんです。シャツを縦にすると、床に立つんですよ。本当に重労働だったと思います」(佳子さん)
風呂は、薪で五右衛門風呂を焚いた。トイレもなく、野原に土を掘って用を足し、排泄物はそこへ埋めた。日曜日だけは、仕事が休みだった。
「猪木家は男手が多く、皆、体力も気力もあった。特に、寛至の仕事ぶりは凄かった。農場主や他のブラジル人労働者たちも、一目置いていた。休みの日には、寛至とよく相撲を取った。私の方が年は3歳上だけど、体格が全く違うからいつも負けていた。彼の兄寿一さんが空手家で、猪木家と片山家の男たちを集めて空手を教えていた。寛至と私も参加した」(片山さん)
猪木家のターニングポイントは落花生栽培
何とか1年半の契約期間を全うすると、日本人7家族は農場を出て別の仕事を探した。
猪木家は、リンスから約70km南へ下ったマリリアという町の郊外の農場へ移動。今度は土地を借り、小作農として働いた。一方、片山家は猪木の姉久江さんの夫婦と一緒に、サンパウロの東約200km東にある海沿いの町ウバトゥーバ郊外の農場へ移った。
猪木家は、当初は綿花を作ったが、栽培方法がよくわからず、失敗した。しかし、翌年から落花生を栽培したところ、これが成功した。この土地で1年余り働き、一家はまとまった金を手にした。
佳子さんはこう記憶をたどる。