熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
“アントニオ猪木になる前”を知るブラジル在住日本人が口々に「惜しい人を亡くした」「他人を疑うことを知らずに…」彼らの英雄だったワケ
posted2022/10/24 17:03
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hiroaki Sawada
生前、アントニオ猪木が「消息を知りたい人」として名前を挙げたことから、日本のテレビ局の取材を受けた人がいる。静岡県御前崎市出身の片山芳郎さんだ。
現在、83歳。猪木より3歳年上で、ブラジルへ移住したときは17歳だった。猪木一家と同じ移民船さんとす丸で横浜港を出発し、同じ移住地(サンパウロの北西約500kmにあるリンス)へ入り、しかも同じ農場で働いたと聞いた。
ベニヤ板で区切っただけの家で“お隣さん”
――船の中で、猪木さんとは交流があったのですか?
「寛至は大柄で目立つので知ってはいたけれど、ほとんど話はしていない」
――ブラジル到着後、猪木家と片山家が配耕された農場では?
「住居として指定されたのが同じ家で、ベニヤ板で区切っただけ。猪木家の人たちの会話が筒抜けで、同じ家族のようなものだった。割り当てられたコーヒー園の区画も近かったし、年も近いので、話をするようになった。
よく一緒に相撲を取ったけれど、寛至は年下でも体格が飛び抜けていたから、いつも負けていた。彼の兄に一緒に空手を習った時期もあった」
――当時、夜空を見ながら将来の夢を語り合った、なんてことはあったのでしょうか?
「いや、そんな映画かドラマのようなことは一度もなかった。毎日の過酷な労働に耐えるのが精一杯で、将来のことを考える余裕などなかった」
――その後、農場との契約が満了して、お互いに別の農場へ移ったそうですね。それ以降の猪木さんとの交流は?
「うちの家族は猪木のお姉さんと同じ農場で仕事をしたから、時折、彼の消息は聞いていた。でも、直接会うことはなかった」
厳しい労働に耐えたことで体力と根性がついたのは間違いない
――猪木さんがあれほどのプロレスラー、さらには政治家になって参議院議員を二期も務めることを想像していましたか?
「いや、とても想像できなかった。でも、あれだけ厳しい労働に耐えたことで体力と根性がついたのは間違いない。このことが、彼があれだけのことを成し遂げることができた最大の理由ではないかと思っている」
――猪木さんの訃報を聞いてどう思いましたか?
「本当に残念。でも、素晴らしい人生を送ったと思う。同じ船で移住してきて、同じ農場で働いて、短い間だったけど友人として付き合えたことをとても誇りに思っている」