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「猪木寛至17歳」が力道山に出会った瞬間、“奴隷同然”な過酷労働…ブラジルで発掘した新聞と証言で知る「アントニオ猪木になるまで」
posted2022/10/24 17:04
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Hiroaki Sawada
<1960年4月6日付サンパウロ新聞>
「力道山帰る 十一月頃再び来る 世界最強の實力を見せ」
《コロニア(注:ブラジル日系社会のこと)になじみ深いプロレス世界選手権保持者力道山は、長澤日一選手ととともにさる三月五日着聖(注:「聖」とはサンパウロのこと)。以来、一カ月間に地方での試合を除き八回闘い全戦全勝の記録を残して、さる(四月)四日午後四時、コンゴニアス空港(注:当時のサンパウロ国際空港)發パン・アメリカン機で帰國した(以下略)。
力道山に見込まれてプロレス道場に入門する猪木完至君(注:正しくは寛至)(十七才)も同行の長澤選手とともに同乗したが、同君は身長一メートル九十二センチ、体重九十キロの巨漢。一昨年、昨年と全伯(全ブラジル)陸上競技選手権少年の部に出場、砲丸(投げ)、円盤(投げ)の二種目に優勝した横浜出身の新来青年。五十七年に来伯、マリリアで農業に従事していた(以下略)。
力道山は、「立派に養成したい。現在、同場門下生は二百名を越しているが、猪木は有望だと思う。鍛えれば一流のレスラーとし檜舞台に君臨できる。私の後継者として養成したい」とベタ褒め。今後が楽しみである。》
【寫真はコンゴニアス空港ロビイで力道山(左)とならんだ猪木君】
35歳の力道山と、幼い顔つきの少年猪木
サンパウロの東洋人街リベルダーデの一角にあるブラジル日本移民史料館の資料保管室で、1960年のブラジル邦字紙のマイクロフィルムを繰り続けた。数時間格闘した末にこの記事を見つけたときは、興奮して思わず声が出た。
当時35歳の精悍な力道山と、背は高いが華奢で幼い顔つきの少年猪木の写真を眺めていたら、一瞬、62年前の空気に触れたような気がした。
このとき、この瞬間から、猪木寛至、転じてアントニオ猪木の人生が始まったのである。
寛至は、1943年2月20日、横浜市で猪木家の六男として生まれた。
父は実業家として成功し、政治家に転身して横浜市の市会議員を務めたが、寛至が5歳になる直前に病死している。
1954年、10歳だった寛至は、近所の家のテレビで力道山と木村政彦がシャープ兄弟と戦った日本初のプロレス国際試合をテレビで見た。力道山の強さとカッコよさに興奮し、プロレスラーになることを夢見た。同時に、父親のような実業家、政治家になりたいとも思った。
一家は皆、スポーツが好きで、空手や陸上競技に親しんでいた。ただし、決して大柄ではない。寛至だけが、飛び抜けて大柄だった。