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アントニオ猪木と“金曜8時”をめぐる視聴率戦争…追放がなければ『太陽にほえろ!』は誕生しなかった? 終止符を打ったのは“たけし城” 

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高木圭介

高木圭介Keisuke Takagi

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photograph byMoritsuna Kimura/AFLO

posted2022/10/07 17:05

アントニオ猪木と“金曜8時”をめぐる視聴率戦争…追放がなければ『太陽にほえろ!』は誕生しなかった? 終止符を打ったのは“たけし城”<Number Web> photograph by Moritsuna Kimura/AFLO

1971年11月1日、NWAタッグリーグで優勝した坂口征二(左)とタッグマッチとアントニオ猪木。この後、日本プロレスから追放されることになる(中央は当時婚約者の女優・倍賞美津子)

 そして86年10月、プロレス中継を中心とした金曜夜8時戦争は、テレビ朝日『ワールドプロレスリング』が13年半住み慣れた金曜夜8時から月曜夜8時へとお引越ししたことで終焉。

 この時、視聴率戦争でプロレス中継を追い込んでいったのは、かつてTBSで中継していた国際プロレスのエースでもあったストロング小林(当時はストロング金剛)もレギュラー出演していた『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS)だった。翌87年末のTPG(たけしプロレス軍団)との遺恨の伏線になっていたわけではないだろうが。

 痛快もなりゆきも猪木の得意技であったが、常に新しい刺激こそが求められるテレビ的に、時代は「たけし城」のほうに流れつつあったのは事実。『ワールドプロレスリング』は87年4月からは『ギブUPまで待てない!!~』と大幅リニューアルされた上で火曜夜8時へと移り、88年4月からは土曜夕方4時の放送に。平成時代に入ると深夜番組に固定された。

 これまた「なんたる因果……」と絶句してしまうのだが、プロレス中継を金曜夜8時から追放してしまった『たけし城』で当時、オフィシャルカメラマンを務めていたのが、のちに猪木の専属カメラマンとなり、夫婦ともなる“ズッコさん”こと橋本田鶴子さん(2019年に62歳で死去)だった。

 誰が勝者で誰が敗者なのか?など判定できないほどに複雑な関係。金曜夜8時をめぐる登場人物の因果には驚かされるばかりだ。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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