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アントニオ猪木と“金曜8時”をめぐる視聴率戦争…追放がなければ『太陽にほえろ!』は誕生しなかった? 終止符を打ったのは“たけし城”
text by
高木圭介Keisuke Takagi
photograph byMoritsuna Kimura/AFLO
posted2022/10/07 17:05
1971年11月1日、NWAタッグリーグで優勝した坂口征二(左)とタッグマッチとアントニオ猪木。この後、日本プロレスから追放されることになる(中央は当時婚約者の女優・倍賞美津子)
72年3月に新日本プロレスを旗揚げした猪木は、坂口征二と合流することでNETテレビの中継枠を確保。NETテレビは7月から日本テレビが撤退した金曜夜8時にもプロレス中継を放送していたため、73年4月6日の放送より、放送局こそ違うものの、猪木は「金曜夜8時」に復帰を遂げる。
一方、日本テレビ主導で全日本プロレスを旗揚げ(72年10月)した馬場は、放送局こそ同じだが「土曜夜8時」へとお引越し。あまりに強大な敵『8時だョ!全員集合』と視聴率を争うこととなる。
79年には『金八先生』も放送開始、出演者には…
日本プロレスのトラブルを原因に生まれた『太陽にほえろ!』だが、それまでグループサウンズ「ザ・テンプターズ」や「PYG」の人気ボーカルの印象が強かったショーケンこと萩原健一が俳優として人気者となる大きなきっかけになった。マカロニ刑事殉職後に登場した松田優作や勝野洋ら後進の新人刑事たちも人気俳優となり、猪木率いる新日本プロレスは、常に視聴率戦争で彼らの人気と戦い続けることを強いられた。
そんな時代がしばらく続いた後、79年10月からは「金曜夜8時」というブランドを、そのまま番組タイトルに使用した『3年B組金八先生』(TBS)の放送がスタート。こちらも話題の人気ドラマとなり、プロレス中継の大きな敵となったのだが、こともあろうに猪木夫人の女優・倍賞美津子さんが養護教諭のアマゾネス先生役でレギュラー出演。のちには劇中で「金八の嫁」となってしまうのだった。この時期、猪木は夫婦で視聴率戦争をしていたことになる。
なんたる因果……と思いきや、猪木の日本プロレス追放をきっかけにスタートした『太陽にほえろ!』で俳優としてチャンスをつかんだショーケンが、映画での共演をきっかけに倍賞美津子さんと親密交際に発展。やがては猪木と倍賞美津子さんは離婚してしまうことに……。