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アントニオ猪木がいなければ格闘技の隆盛もなかった…先進的だった“猪木アリ状態”、45年前にOFG着用も「猪木が蒔いた種が花畑に」
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph byJIJI PRESS
posted2022/10/06 17:05
1976年当時、モハメド・アリとアントニオ猪木による「格闘技世界一決定戦」は凡戦と酷評されたが、現在ではMMAのルーツとして再評価されている
松永氏は「(一般的に)使い始めたのは、たぶん梶原一騎さん」と推測する。
「人々の心に残る言葉を作るのがうまい人でしたからね」
梶原一騎は『巨人の星』や『あしたのジョー』の大ヒットで知られる劇画の原作者だ。格闘技界との関わり合いも深かったが、のちに大阪で猪木を監禁するという騒動を起こしている。振り返ってみれば、良くも悪くも影響力があった人としかいいようがない。
45年前にオープンフィンガーグローブを着用
図書館で76年6月の新聞縮刷版をめくっていると、猪木vs.アリ前日の夕刊に「ついに明日一般公開!」というキャッチとともに、映画『地上最強のカラテ』の広告が掲載されていた。写真は炎をバックにポーズをとるウィリー・ウィリアムス。のちに猪木と対戦する極真会館(当時)の猛者だ。メインのコピーは「これが世界最強の格闘技だ!!」。この映画を製作した梶原にとって、猪木vs.アリと、空手をメインに据えた実録モノの格闘技映画は連動するものだったのだろう。『地上最強のカラテ』はヒットし、約7カ月後には早くもパート2が封切られている。ウィリーが熊と闘い、“熊殺し”と命名されるのはパート2の方だ。
映画『ロッキー』のモデルになったチャック・ウェプナーと77年10月25日に異種格闘技戦を行うとき、猪木は現在のMMAでは定番となったオープンフィンガーグローブ(OFG)を装着してリングに上がった。当時、猪木の練習パートナーは、のちに初代タイガーマスクに変身する若き日の佐山聡が務めていた。新日本プロレスのストロングスタイルをさらに進化させる形でより純粋な格闘技にしたかった革命家・佐山の進言によって、猪木は殴るだけではなく掴めるグローブを使用したのだ。
そもそも、指が自由に使えるこの特殊なグローブは、ブルース・リーが武道家のダン・イノサントと1960年代に考案したといわれているが、そのルーツを辿っていけば空手や日本拳法が使っていた拳サポーターに行き着く。試行錯誤を重ねた末に、OFGは佐山が創設した日本初の総合格闘技団体『修斗』(設立当初はシューティング)で定番となり、のちに世界最大のMMAプロモーションとなる『UFC』でも採用されるに至った(黎明期のUFCはベアナックル=素手で闘うことが一般的だった)。
もしこの時期に佐山が猪木の練習パートナーを務めていなければ、OFGの普及は遅れていたのだろうか。