Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER

アントニオ猪木が当局の反対を押し切って叫んだ「1、2、3、平和!」1995年北朝鮮興行に込めていた思いとは?「ガウンは平壌に脱いできた」

posted2022/10/06 17:02

 
アントニオ猪木が当局の反対を押し切って叫んだ「1、2、3、平和!」1995年北朝鮮興行に込めていた思いとは?「ガウンは平壌に脱いできた」<Number Web> photograph by Essei Hara

1995年北朝鮮のメーデースタジアムでの試合後に撮られた1枚。観客動員38万人の大イベントに猪木が込めていた思いとは…?

text by

長谷川晶一

長谷川晶一Shoichi Hasegawa

PROFILE

photograph by

Essei Hara

 10月1日に逝去した名レスラー、アントニオ猪木。1995年、猪木がメインイベンターを務め、38万人を集めた伝説的な興行が北朝鮮の地で行われた。日本プロレス史上もっとも多くの観衆を集め、もっとも特異な環境で行われた一戦。力道山、拉致問題、引退……。幾重にも意図と思惑が絡んだ「平和の祭典」とは何だったのか?
 その稀有な時と場所を体感した作家の村松友視、カメラマンの原悦生、リングアナの田中ケロ、女子プロレスラーのブル中野に訊いた猪木最大の興行の実相――。
 Number1055号(2022年7月14日発売)より『[証言構成ピョンヤン1995]猪木がガウンを脱いだ日』を特別に無料公開します。前編に引き続き、興行2日間とも試合に出場したブル中野の証言から後編はスタートする。(肩書は全て当時。全2回の第2回/前編は#1へ)

私は最後の抱擁をどうしてもやりたかった

「私が見せたいと思ったのは、《女性が大舞台で大暴れをして自己主張すること》でした。私たちの試合を通じて《女》とか、《男》ということを忘れさせる試合をしよう。私がアピールできることは《自由》でした。人間は性別に関係なく自由なんだ。そんな戦いを見せたいと思ったんです」

 この言葉を村松に告げると、彼は「なるほどね」と言い、大きくうなずいた。

「あの時代において、ブル中野というプロレスラーが何で突出していたのかがよくわかる言葉ですね。そういうセンスを持っているレスラーだったんですね、彼女は」

 この日、ブルは北斗に敗れる。試合終了後のリングで二人は熱い抱擁を交わした。

「私は最後の抱擁をどうしてもやりたかったんです。これって、馬場さんと猪木さんがタッグを組んだときのマネなんです」

 プロレスを知らない異国の人々の前で、「BIタッグ」を演出する発想力がブルにはあった。

「闘魂」と大書された純白のリングガウンを脱ぎ捨てた

 メーデースタジアムを訪れた19万人の観客のボルテージは少しずつ、少しずつ高まりつつあった。スタンドを埋め尽くす市井の人々。リングサイドに陣取る日本人プロレスファン。全世界から駆けつけたマスコミの面々。彼らの期待がメインイベントに寄せられる中、ラメ入りの紫色のガウンに身を包んだリック・フレアーが先に入場する。そして、猪木の入場曲『炎のファイター』が会場中に響き渡る。原曲はモハメド・アリの『アリ・ボンバイエ』だ。

 1976年6月26日、日本武道館で行われた「格闘技世界一決定戦」での激闘後に芽生えた友情により、アリから猪木に贈られた曲だった。貴賓席のアリはサングラスをかけたままその光景を見つめている。大会初日、北朝鮮サイドは「日本の曲を使ってはいけない」と通達する。しかし、2日目は新日本サイドが「普段通りの曲を使う」と強硬に主張して、強引に認めさせたものだった。北朝鮮の夜空に“猪木ボンバイエ”が響き渡る。「燃える闘魂」を象徴するこのメロディは、19万人の観衆の耳にどのように届いたのだろうか? 田中リングアナのコールに合わせて、猪木は「闘魂」と大書された純白のリングガウンを脱ぎ捨てる。

【次ページ】 地元観客たちからも、大きなどよめきと歓声が

1 2 3 NEXT
新日本プロレス
アントニオ猪木
リック・フレアー
力道山
村松友視
モハメド・アリ
原悦生
田中秀和
ブル中野
北斗晶

プロレスの前後の記事

ページトップ