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アントニオ猪木が当局の反対を押し切って叫んだ「1、2、3、平和!」1995年北朝鮮興行に込めていた思いとは?「ガウンは平壌に脱いできた」
posted2022/10/06 17:02
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Essei Hara
私は最後の抱擁をどうしてもやりたかった
「私が見せたいと思ったのは、《女性が大舞台で大暴れをして自己主張すること》でした。私たちの試合を通じて《女》とか、《男》ということを忘れさせる試合をしよう。私がアピールできることは《自由》でした。人間は性別に関係なく自由なんだ。そんな戦いを見せたいと思ったんです」
この言葉を村松に告げると、彼は「なるほどね」と言い、大きくうなずいた。
「あの時代において、ブル中野というプロレスラーが何で突出していたのかがよくわかる言葉ですね。そういうセンスを持っているレスラーだったんですね、彼女は」
この日、ブルは北斗に敗れる。試合終了後のリングで二人は熱い抱擁を交わした。
「私は最後の抱擁をどうしてもやりたかったんです。これって、馬場さんと猪木さんがタッグを組んだときのマネなんです」
プロレスを知らない異国の人々の前で、「BIタッグ」を演出する発想力がブルにはあった。
「闘魂」と大書された純白のリングガウンを脱ぎ捨てた
メーデースタジアムを訪れた19万人の観客のボルテージは少しずつ、少しずつ高まりつつあった。スタンドを埋め尽くす市井の人々。リングサイドに陣取る日本人プロレスファン。全世界から駆けつけたマスコミの面々。彼らの期待がメインイベントに寄せられる中、ラメ入りの紫色のガウンに身を包んだリック・フレアーが先に入場する。そして、猪木の入場曲『炎のファイター』が会場中に響き渡る。原曲はモハメド・アリの『アリ・ボンバイエ』だ。
1976年6月26日、日本武道館で行われた「格闘技世界一決定戦」での激闘後に芽生えた友情により、アリから猪木に贈られた曲だった。貴賓席のアリはサングラスをかけたままその光景を見つめている。大会初日、北朝鮮サイドは「日本の曲を使ってはいけない」と通達する。しかし、2日目は新日本サイドが「普段通りの曲を使う」と強硬に主張して、強引に認めさせたものだった。北朝鮮の夜空に“猪木ボンバイエ”が響き渡る。「燃える闘魂」を象徴するこのメロディは、19万人の観衆の耳にどのように届いたのだろうか? 田中リングアナのコールに合わせて、猪木は「闘魂」と大書された純白のリングガウンを脱ぎ捨てる。