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「アントニオ猪木と闘うことで有名になれた」“あぶれ者”だったスタン・ハンセンを覚醒させた“猪木の手腕”「感謝の気持ちを持ち続けている」

posted2022/10/06 17:07

 
「アントニオ猪木と闘うことで有名になれた」“あぶれ者”だったスタン・ハンセンを覚醒させた“猪木の手腕”「感謝の気持ちを持ち続けている」<Number Web> photograph by Essei Hara

長年にわたって日本のプロレス界で活躍したスタン・ハンセン。アントニオ猪木への思いなどを語った

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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Essei Hara

 9・18日本武道館で行われた全日本プロレスの50周年記念大会に合わせて、“不沈艦”スタン・ハンセンが久しぶりに来日をはたした。

 ハンセンは、1970年代半ばから2001年1月の引退まで約25年もの長い間日本プロレス界のトップに君臨し続けた最強外国人レスラー。現役時代の来日回数は実に131回を誇るだけに、その人気は今も健在で、日本滞在中は精力的にトークイベント等ファンとの交流を持ち、どこも盛況だったようだ。

 9月17日には京セラドームのオリックス・バファローズ対福岡ソフトバンク・ホークス戦で始球式にも登場。トレードマークのロングホーンつながりでパワーを与え、それがバファローズのパ・リーグ逆転優勝につながった……と、プロレスファン的には勝手に思いたいところだ。

 ちなみに、ハンセンといえば左腕から放つウエスタン・ラリアットが必殺技だが、始球式では右投げだったので、今回インタビューする機会があった際にその理由を聞いてみると、「ものを書くのもフォークを持つのも左手なんだが、ベースボールだけはなぜか、右投げ左打ちなんだ。ハンドボールでは左右どちらからでも投げられるから、両利きに近いのかもしれないね」とのことだった。

ブレイクのきかっけは、猪木との抗争だった

 そんなスタン・ハンセンが日本でスターダムにのしあがったのは、なんと言っても今月1日に亡くなったアントニオ猪木さんとの抗争がきっかけだ。

 それだけに「ハンセンこそ、最も猪木イズムを体現した外国人レスラー」と感じているオールドファンも数多くいるが、初来日は1975年9月、ウエスト・テキサス州立大学の先輩でもあるテリー・ファンクのブッキングで、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスへの参戦だった。

 ハンセンは初来日時の日本の印象をこう語っている。

「初めて日本に来たとき、羽田空港から東京のダウンタウンに入ってきたときに見た景色が、自分が子供の頃に映画館で観た『ゴジラ』の町並みそのものだったので、それがすごく印象的だったのを憶えているよ。それにジャパニーズスタイルのトイレは、どうやって使っていいかわからなかったのもいい思い出だ(笑)。それは徐々にマスターしていったが、野外のプロレス会場では男性用と女性用のトイレが分かれておらず、同じものを使用していたのは驚いたね。アメリカではありえないことだから。

 とにかく、当時の私は外国と言えば地元テキサスに隣接するメキシコしか行ったことがなく、日本への遠征は初の海外旅行みたいなものだったから、ものすごいカルチャーショックを受けたよ。そしてまさかその後、25年もの長い間、日本で闘い続けることになるとは、その時は夢にも思わなかったね」

【次ページ】 “あぶれ者”だったハンセンを活かした猪木の手腕

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