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ボクシングPRESSBACK NUMBER
「ほんま、脳みそだけは触ったらあきませんよ」西成の“ごんたくれ”だった赤井英和が伝説のボクサーとして成り上がるまで〈25歳で壮絶引退〉
text by
曹宇鉉Uhyon Cho
photograph byNIKKAN SPORTS/Shiro Miyake
posted2022/09/08 11:02
1980年代、時の世界王者を凌ぐほどの人気を誇った“浪速のロッキー”。知られざる「プロボクサー・赤井英和」の実像とは
「判定で勝っても意味がないんや、と。でかいジムならチャンスもあるんやろうけど、うちみたいなちっこいジムで、世界タイトルマッチをするにはKOしかない。それで頭を振って、バンバン前に出ていくスタイル、いわば“魅せるボクシング”に変えたんです」
その目論見通り、デビュー戦から7連続KO勝ちを収めたあとには、ノンタイトルの10回戦ながら朝日放送での中継が決まった。その後もKOを積み重ね、ついたあだ名が“浪速のロッキー”。12試合連続KOの豪腕に加えて、試合後の軽妙なマイクと明るいキャラクターでも人気を博した。
念願の世界戦と“引退騒動”のウラ側
1983年7月7日、14戦14勝(13KO)というレコードを引っ提げて、WBC世界スーパーライト級タイトルマッチでアメリカのブルース・カリーに挑戦する。赤井はまるでつい先日戦った相手かのように、身振り手振りを交えながらこの試合を振り返った。
「最初に頭突きでも一発かましてダメージを残したろうと思ったんですが、カリーの頭が想像以上に固くて、逆にこっちの頭が切れました(笑)。それはさておき、1回パンチで倒してんねん。でも、レフェリーがスリップだと判断してダウンを取ってくれなかった。
あとね、カリーは私より5、6cmは背が低かった。それなのに『ここやったら当たらんやろ』というところからポンポンもらってしまった。後からビデオを見てわかったんですけど、パンチを打つ瞬間にグッと肩を入れていて、だから遠くからでも当たるんです。そのあたりの技術は、さすがチャンピオンやなと」
結果は7回TKO負け。同時に「これやったら、次は勝てるな」という手応えを得た試合でもあった。しかしふたたびの世界挑戦を目指して再起し、連勝を重ねる道のさなか、赤井の心には澱が溜まっていく。理由は、どれだけKOを積み重ねても改善されない待遇にあった。
「私ね、引退騒動というのを起こしているんです。もうやってられへん、と。世界タイトルマッチのあとに、『赤井のファイトマネーは1000万円だ』という話があったんですけども、実際は3000円のチケットを3000枚ちょっと刷ってもらって、それを自分で手売りしただけ。人気が出てもずっと同じです。スポーツメーカーのCMの収入も、奨励賞の収入も、素通りで他のところに持っていかれて……。不信感が募りに募って、引退騒動を起こした次の試合が、あの大和田戦でした」