- #1
- #2
ボクシングPRESSBACK NUMBER
「ほんま、脳みそだけは触ったらあきませんよ」西成の“ごんたくれ”だった赤井英和が伝説のボクサーとして成り上がるまで〈25歳で壮絶引退〉
text by
曹宇鉉Uhyon Cho
photograph byNIKKAN SPORTS/Shiro Miyake
posted2022/09/08 11:02
1980年代、時の世界王者を凌ぐほどの人気を誇った“浪速のロッキー”。知られざる「プロボクサー・赤井英和」の実像とは
「こいつに勝てば、俺がチャンピオンやないかい」
1977年、高校2年生で出場した青森国体のライトウェルター級(64kg以下)。当時まったくの無名選手だった大阪府代表の赤井は、2年連続高校王者の佐賀県代表・吉田信次との対戦を控えていた。
「こいつに勝てば、俺がチャンピオンやないかい」
そう考えた赤井は、プロのジムに出向き、トレーナーに教えを請うことになる。そこで出会ったのが、のちにグリーンツダジムの会長となる故・津田博明だった。
「吉田選手はサウスポーでしたから、その対策のつもりでジムに行ったら、明けても暮れてもサンドバッグに左ばかり打たされた。内心、『右とかもいろいろ教えてくれや』と思っていたんですが、津田さんはとにかく徹底的に左を磨けと。ジムに行かへんときも、ちっこいサンドバッグを近くの公園のジャングルジムに柔道着で縛って、ひたすら左、左、左……」
猛特訓が功を奏し、赤井は左で吉田を圧倒。大番狂わせの判定勝ちを収め、当時の『ボクシング・マガジン』に「無名の赤井が吉田に勝つ」という記事が掲載された。
「ほんの2行くらいのもんですけどね。それでもむちゃくちゃ嬉しかった。そのときに近畿大学の吉川昊允監督にいち早く声をかけてもらって、近大に行こう、と。近大の選手として、五輪に出るつもりでした」
プロとしての戦略「世界戦をするには、KOしかない」
インハイ制覇などの実績を残して近畿大学に入学し、1980年のモスクワ五輪を目指してトレーニングに励んでいた赤井だが、1年時に出場した全日本選手権で、モントリオール五輪代表の小田桐幸雄に1-2のスプリット判定負けを喫する。
「全然打たれてへんし、相手は左でボコボコですよ。なのに判定で負けて、リングの上で座り込みましたね。なんでやねんと。もう悔しくて悔しくて、『アマチュアではやってられへんな』という気持ちになった試合でした」
日本選手団のボイコットもあり、モスクワ五輪への出場が絶たれた赤井は、学生の身でプロ転向を決意する。東京も含め多くの名門ジムから誘いがあったが、高校時代の恩義から、津田会長が新たに立ち上げたグリーンツダジム(設立当時は愛寿ボクシングジム)への所属を決めた。
「選手ひとり、会長ひとり。ジムゆうても、長屋の一階をつぶして、四畳半くらいしかないリングを日曜大工で作ったような場所です。それでも、やっぱり津田さんに見てもらいたかった」
プロボクサーとして戦うにあたって、赤井は意識的にスタイルチェンジを行った。長いリーチと左のリードブロウを活かしたアウトボクサーから、派手なKOを狙う荒々しいインファイターへ。その裏には、赤井なりの生存戦略があった。