高校サッカーPRESSBACK NUMBER
「帝京はなぜブラジルユニ?」6度の選手権V、古沼貞雄元監督に聞いた帝京サッカー部の半世紀「私はアルゼンチンのほうが好きだったけど…」
posted2022/09/03 17:02
text by
杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph by
Kazuhito Yamada
同じカナリア色のユニフォームを採用し、世界のトップに君臨する王国のように圧倒的な強さを誇った帝京。監督として黄金期を築いた古沼貞雄さんは、半世紀以上前のことをよく覚えている。話は名門のユニフォームが黄色となる前にさかのぼる。(全3回の3回目/#1、#2からの続き)
かつては“真紅”だった帝京のユニフォーム
「帝京といえば、ブラジルカラーの黄色が定着していますけど、かつては違いました。私が監督になったばかりの頃(1965年)は“金茶色”(明るい茶色)でした。昔、全盛を誇った中央大の色をマネたようですね。その数年後、私の好きな色に変えたんですよ」
古沼さんが選んだのは黄色ではない。シャツは真紅の赤。短パンは白、ソックスは赤。赤ベースの組み合わせである。1967年の埼玉国体に帝京で単独出場し、全国3位の実績を残していたこともあり、OBからの異論も出なかった。ファーストユニフォームは赤色、セカンドは金茶色。ときには白色のシャツでも戦った。
「60年代は大会前にユニフォームの申請などしなかったんですよ。あの頃の帝京は経費削減も兼ねて、肌着の白色Tシャツをセカンドユニフォームにしたこともありました。1枚80円くらいで買えたかな。汗でびっしょりになれば、前後半で着替えました。背番号はなくてもよかったので。でもあるとき、高体連(全国高等学校体育連盟)の委員長から急に『背番号は付けてほしい』と言われて、急ぎ油性マジックで書いて公式戦を戦ったこともありました」
「ブラジル代表のようなユニフォームが着たい」
“真紅の帝京”は1970年の東京都予選、関東地区予選を勝ち抜き、関東代表として3年ぶりに冬の全国高校選手権に出場(全16チーム)。晴れの舞台を控えた時期にチームの中心選手だった高田泰樹が、監督の古沼さんのもとに直談判に来た。
「全国大会は、いまのユニフォームで出場しないといけませんか。もし可能ならば、(1970年)メキシコ・ワールドカップで優勝したブラジル代表のようなユニフォームが着たいんですけど」