高校サッカーPRESSBACK NUMBER
「帝京はなぜブラジルユニ?」6度の選手権V、古沼貞雄元監督に聞いた帝京サッカー部の半世紀「私はアルゼンチンのほうが好きだったけど…」
text by
杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph byKazuhito Yamada
posted2022/09/03 17:02
1984年1月の第62回大会決勝で武田修宏を擁する清水東を破り、優勝を果たした帝京。翌年も優勝し、黄金時代を築いた
『雪の決勝』ではゴールも決めたが…
古沼さんは金杉の潜在能力を買い、中学3年生からは週1回くらいのペースで帝京の練習に参加させた。すると、界隈で有名になり、FC東京(前身の東京ガス)、東京ヴェルディ(前身のヴェルディ川崎)の下部組織からも誘いが来るようになっていた。いま思えば、少し騒がれ過ぎたのかもしれないという。入学後はそれなりに活躍し、『雪の決勝』ではゴールも決めたが、華やかなプロの世界に入ることはなかった。卒業後は日体大に進んで主将を務め、現在は少年サッカーの指導者となっている。
「プロでやる感じではなかったですね。『自分はダメです』と話していたので。それでも、いまは埼玉で立派な指導者になっています。Jクラブの下部組織も欲しがる選手を育てていますからね」
帝京時代の教え子だけでも200人近くが、現在もサッカー関係の仕事に就いている。1965年から2003年まで39年近くにわたって帝京を率い、数多の名選手たちを輩出してきた。古沼さんが求めた“帝京イズム”を最も体現したのは誰なのか――。
古沼も認める“帝京イズム”の継承者は…
名伯楽は間髪入れずに一人の名前を挙げた。
「佐々木則夫(現JFA女子委員長)だろうね。帝京の3年次にキャプテンを務めて、1976年のインターハイで初優勝したんですよ。選手権ではベスト4。古沼サッカーはまず守備からだ』と頭で理解していたと思います。私から直接、戦術について細かく話したことはないのですが、則夫は分かっていました。守備センスを持っていたので。高校卒業後は明治大でサッカーを学び、日本電信電話公社(NTTの前身)に入社し、社会人として集金係などを経験しながら関東リーグから日本リーグまで這い上がっていきました。指導者としてもコツコツとキャリアを重ね、なでしこジャパンを率いて女子ワールドカップの初優勝に導いたんだから。一番の出世頭です」
私は39年で一度も「帝京魂」と口にした覚えはありません
佐々木氏の生き様は、小石が転がる小さなグラウンドからスタートし、全国屈指の強豪となった帝京の歩みに似ているのかもしれない。評価するのは、あきらめずにコツコツと努力を続ける姿勢。「『帝京魂』の原点ですか」と水を向けると、古沼さんは手を叩いて笑いながら、首を横に振った。