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「這ってでもプレーすべきだった…」“W杯で戦えなかったキャプテン”森岡隆三が酔いつぶれた宮城の夜と「アメリカへの逃避行」
text by
森岡隆三Ryuzo Morioka
photograph byJMPA
posted2022/07/07 17:03
2002年6月18日、宮城で行われた日韓W杯の決勝トーナメント1回戦。日本はトルコに敗れ、ベスト16で大会を去ることになった
翌日、静岡へ戻ってチームは解散した。
トルシエ体制になってからの数年間のチャレンジがついに終わる。スタッフ、チームメイト、お世話になった北の丸のみなさんに別れを告げ、静岡の自宅に戻った。
代表メンバー発表から約1カ月。
閃光のようなあっという間で、そして、とてつもなく長く感じた1カ月間だった。
ラスベガスへの逃避行
Jリーグが再開される前、エスパルスからオフをもらったこともあり、私はすぐさまアメリカ・ラスベガスへと旅立った。
ちょうど4年前のワールドカップ大会期間中に旅した街だ。日本の初めてのワールドカップをテレビ観戦しようとしたが、どこを探してもリアルタイムで放送していなかった。だからここを選んだ。
世界のほとんどが熱狂するサッカーワールドカップで、熱狂しない場所だったから。
人生で初めて、サッカーから逃げた。サッカーボールから離れた。
「残念でしたね」と慰められるのがキツかった。
「次がありますから」と励まされるのも、受け入れられなかった。
ワールドカップの舞台で活躍するプレーヤーを見たくなかった。
そんな小さな自分、嫉妬する自分が嫌だったのだ。
20年経った今でも、ワールドカップのことを思い出すと複雑な感情が湧いてくる。喜びとともに思い出せるシーンはわずかなものだ。
大会前のプールサイドのパーティー、宿舎でのビリヤード、青に変わった東京タワー、青く染まった埼玉スタジアム、そして、モリシのゴール。
一方で、悔しさと絶望感を呼び起こす、思い出したくもないシーンは数多い。
左足の違和感、ピッチに座り込み担架で運ばれたこと、何本注射を打っても変わらなかった左足、練習中にシンジを怒鳴ってしまった恥ずかしい自分、眠れない毎日。
大会後にヨーロッパのクラブに移籍したいという淡い夢は砕けた。
あのときピッチに倒れ込み、ピッチの外へ出たことで、すべてが終わってしまった気がした。どんなに足が痛くとも、動かなくとも、監督から、「出ていけ!」と言われるまで、這ってでもピッチでプレーすべきだった。
そうしていれば、少なくとも自分のなかにある、不完全燃焼の感覚は生まれなかったのではと思った。
時間は決して戻らない。前を向かなくてはならないにもかかわらず、そんな後悔の念が、心と体にまとわりついた。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。