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阪神二軍が引っ越し予定…阪神電車“尼崎駅”には何がある?「ヤクルトより早かったマジック点灯」「大阪では禁止のダンスホールがあった」 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/07/04 17:02

阪神二軍が引っ越し予定…阪神電車“尼崎駅”には何がある?「ヤクルトより早かったマジック点灯」「大阪では禁止のダンスホールがあった」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

鳴尾浜球場で先発する藤浪晋太郎(写真は2019年のウエスタン・リーグで)。阪神の二軍が移転する尼崎には何があるのか?

 古くからの水陸交通の要衝だった尼崎は、中世にはたびたび戦乱の舞台となり、江戸時代に入ると譜代大名が入れ替わり治める尼崎藩が置かれた。その中心が、阪神尼崎駅の南東にあった尼崎城と、その周辺の城下町だったのである。

 明治に入ると尼崎藩は消滅し、こんどは工業都市として発展してゆく。その先駆けは1889年に開業した尼崎紡績(現在のユニチカ)だ。さらに臨海部の埋め立てが進んで東洋紡績(東洋紡)や尼崎火力発電所などが置かれ、中心市街地を取り巻くように中小の工場も林立。神崎川・淀川を挟んで隣り合う大阪との結びつきの極めて強い工業都市としての尼崎が作られていった。

 この間の1874年に現在のJR尼崎駅が開業する。海側の中心市街地から遠く離れた不毛の地に設けられた駅で、当時は神崎駅と名乗っていた。ほどなく工業化が進んだ中心市街地とは尼崎港線(福知山線の支線)で結ばれるようになった。この尼崎港線は1984年限りで廃止されてしまったが、終点の尼崎港駅の跡地は尼崎城跡の南側、阪神高速の高架下の川沿いにひっそりと残っている。

大阪市内で禁止されたダンスホールがあった

 阪神電車(阪神尼崎駅は1905年開業)についで阪急電車も尼崎市内を通るようになると、古くからの中心市街地から離れた北側の田園地帯の宅地化も進み、昭和の初めに阪神国道が通るといよいよそれが加速。大阪市内では淫らな風俗営業として禁じられていたダンスホールが尼崎市内にいくつも誕生し、尼崎は歓楽街としての性質も持つようになる。

 臨海部に密集していた工場群で働く人たちにとっても、繁華街・尼崎は仕事帰りや休日に憩いを求めるのによかったのだろう。いまの阪神電車尼崎駅周辺の雰囲気、そして阪神タイガースの庶民性はそういったところから続いている歴史的なものなのだ。

 そんな工業都市にして大阪の衛星都市的な繁華街も兼ね備えていた尼崎だが、その東の端、地図でいうと阪神電車の本線となんば線がちょうど二股に分かれるあたり。大正時代、その場所に大日本紡績(元尼崎紡績)の新工場が誕生した。従来の敷地を含め、19万平方メートルに及ぶ広大な工場で、尼崎のシンボルのひとつであった。

阪神のファームが移転する場所に行ってみた

 しかし、空襲によってすべて灰燼に帰す。かろうじて残った建物を利用して戦後も操業を続けたが、1965年に廃止される。その跡地に設けられたのが、小田南公園という。そしてこの小田南公園が、阪神タイガースのファームが移転してくるという新球場の予定地である。

 小田南公園は、阪神電車尼崎駅のひとつ手前、大物駅のすぐそばにある。歩いて5分もかからない(※なお尼崎駅から同公園へは徒歩で20分ほど)。

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