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武藤敬司が“アントニオ猪木の呪縛”を解いた…本人が語った「闘魂三銃士のストーリーは…」「ムタは本当に大変だったよ」〈引退発表〉 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/06/21 11:00

武藤敬司が“アントニオ猪木の呪縛”を解いた…本人が語った「闘魂三銃士のストーリーは…」「ムタは本当に大変だったよ」〈引退発表〉<Number Web> photograph by AFLO

“悪の化身”グレート・ムタとしても人気を博した武藤敬司

ファンの間で沸き上がった“武藤待望論”

 武藤の凱旋帰国は、じつはこれが2度目。この3年半前、86年10月に“スペースローンウルフ”の異名でアメリカから帰国した際は、新日本を前田日明らUWF勢による“格闘プロレス”が席巻しており、武藤のアメリカンスタイルはファンに受け入れられなかった。

 そのため武藤は、88年1月から再び出直しの海外遠征に出発。するとプエルトリコで半年ほど実績を作ったあと、アメリカのメジャー団体WCWで大ブレイク。NWA世界王者リック・フレアーと何度も対戦し、毎週アメリカのテレビのゴールデンタイムに登場するようになる。武藤敬司は、野茂英雄がMLBで活躍する5年以上前に、プロレス界の“メジャーリーガー”となったのだ。

 この活躍ぶりが日本でもプロレス雑誌等で報じられると、ファンの間で“武藤待望論”が沸き上がる。こうして90年4月の凱旋帰国は、86年10月とはまったく違う期待感の中で行われたのだ。

「当時、(世界最大のプロレス団体である)WWEも俺をほしがってるって話を聞いていたから、もし日本で受け入れられなかったら、アメリカに戻ればいいやって開き直ってたんだよな。あと、日本はUWFがブームだったけど、UWFの地味なプロレスにちょっとファンが飽き始めてたことも俺には好都合だったね」

 こうして武藤は、NKホールでの凱旋帰国マッチにおいて、アメリカで培ってきたダイナミックなプロレスを展開。最後は必殺のムーンサルトプレスでマサ斎藤を破り、タッグ王座を奪取。たった1試合で新日本プロレスのムードを華やかなで明るいものへと変えたのである。

『G1クライマックス』は「バケモノばっかりだった」

 この翌年、91年8月に新日本は“真夏の最強決定リーグ戦”『G1クライマックス』を初開催。長州力、藤波辰爾、ビッグバン・ベイダー、バンバン・ビガロ、スコット・ノートンという日米のトップレスラーだけが参加したこの大会で、闘魂三銃士は大活躍する。決勝戦では、“大穴”蝶野が武藤を破り見事に優勝。この予想外の結末に会場の両国国技館では、客席から座布団が乱れ飛び、爆発的な盛り上がりを見せた。このG1で上位を独占したことで、本格的な三銃士時代幕開けをファンに印象付けたのだ。

「第1回のG1は、4日連続でタイトルマッチをやるようなもんだったから、肉体的にしんどかったよ。しかも相手はベイダー、ノートンとかバケモノばっかりだからね。ただ、あの大会が大成功したことで、俺たち三銃士がトップになるきっかけを掴んだし、新日本もあそこからどんどん人気が上がっていったのは確かだよな。G1自体、あれから30年以上夏のドル箱シリーズとして続いてるんだから、たいしたもんだよ。もともとは、競馬好きの坂口(征二)さんが、重賞レースをもじって名付けた大会なのにさ(笑)」

 90年代前半の新日本人気は、やはり闘魂三銃士の3人が揃っていたからだと、武藤は語る。

【次ページ】 武藤が語る闘魂三銃士「俺たち3人というのは…」

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