プロ野球PRESSBACK NUMBER
「常に酷評でした」監督・野村克也に公開説教された“田中将大の同期ドラ1”…楽天コーチ永井怜から“将大へのエール”「勝ち星を増やせる力は」
posted2025/04/24 17:02

2007年、ルーキー時代の楽天・田中将大
text by

間淳Jun Aida
photograph by
Toshiya Kondo
最終的に完成したのは“24勝0敗”の2013年
プロ2年目の田中将大は、4歳年上ながらドラフト同期の永井怜(現楽天二軍投手コーチ)が武器としていた縦に割れるカーブの習得を試みる。球の握り方や体の使い方、軌道のイメージなどを教わり、キャッチボールやブルペンで繰り返し練習した。結果的には「上手くイメージできない。これは無理ですね」と手の甲を返す投げ方が自分に合わないと判断して断念したが、今では代名詞になっているスプリットは試行錯誤を重ねていた。近くで見ていた永井は、このように振り返る。
「指のかけ方など色々と変えていました。最終的に完成したのは24連勝でチームを優勝に導いた2013年くらいだと思います」
その後も田中はツーシームやカットボールを覚え、投球の幅を広げていった。軸とする変化球を登板日の調子に合わせて選択できるところも強みであり、投球の引き出しとなっている。
ADVERTISEMENT
田中がプロ1年目から2ケタ勝利を挙げて新人王を獲得できた理由には、ドラフト会議で交渉権を獲得した球団が楽天だったことも少なからず影響している。先発投手の人数が十分とは言えないチーム事情、将来のスターを育成したい球団の方針。さらに、当時チームを指揮していた野村克也監督の存在は田中に追い風となった。
「マー君 神の子 不思議な子」
有名なフレーズが象徴しているように、野村監督は田中が先発の役割を果たせなかった時も酷評しなかった。他の投手であれば得意のボヤキが出そうな場面でも、田中に対しては“封印”した。
野村監督からの酷評…しかし憎みもうらやみもない
永井も自身への接し方と田中には違いがあると感じていた。
「野村監督の言葉はコーチやマスコミの方から聞くことが大半でしたが、自分は常に酷評されましたね。褒められた記憶は野村監督が退任した2009年にチームで一番安定していると一度言われたことくらいです。少しは野村監督に良いことを言わせたいという気持ちがありました」
永井は野村監督を憎んだり、田中をうらやんだりはしていない。