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武藤敬司が“アントニオ猪木の呪縛”を解いた…本人が語った「闘魂三銃士のストーリーは…」「ムタは本当に大変だったよ」〈引退発表〉 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/06/21 11:00

武藤敬司が“アントニオ猪木の呪縛”を解いた…本人が語った「闘魂三銃士のストーリーは…」「ムタは本当に大変だったよ」〈引退発表〉<Number Web> photograph by AFLO

“悪の化身”グレート・ムタとしても人気を博した武藤敬司

武藤が語る闘魂三銃士「俺たち3人というのは…」

「俺たち3人というのは、全員84年デビューの同期。たまたまデカい3人が揃ったライバル関係がいい効果を生んだよな。あれが、もし俺ひとりが目立つだけだったら、新日本の層の厚さを感じさせなかったよ。俺と蝶野、橋本っていうタイプの違う3人がいて、それを追いかける馳浩、佐々木健介がいて。まだ上には長州力、藤波辰爾もいたわけだから。三銃士の横のライバルストーリーもあれば、上の先輩に食ってかかるストーリーもあり、さらに下からの突き上げもある。新日本の中で、いろんなストーリーが複合的に展開されていたから、あれだけ多くのビッグマッチもやることができたんだと思うよ」

 当時、ライバル団体の全日本プロレスでは、三沢光晴、川田利明、小橋建太、田上明の「全日四天王」が人気を集めていたが、新日と全日の違いも、その層の厚さにあったと語る。

「全日本の四天王プロレスっていうのは、あの4人同士が闘って作り上げたものだよね。それに対して、俺たちって意外と三銃士同士では闘わなかった。橋本は異種格闘技戦をやったり、俺はアメリカから来る外国人選手とやったり、蝶野が途中から独自のヒール路線に行ったり、それぞれが別の方法で活躍してたんで、いろんなバリエーションが生まれたんだよ。でも四天王というのは、あの4人だけで試合内容を濃くしていって、他を受け入れないようなところがあったと思うから、そうするとマッチメイクも手詰まりになってくるよな」

 90年代前半、全日本は四天王の直接対決で年に6~7回の日本武道館大会を満員にし続けた。対する新日本はバラエティ豊かなマッチメイクで、東京ドームをはじめ数々のビッグマッチを成功させたが、それを可能にしたのは、三銃士それぞれの違うかたちでの活躍によるものだったのだ。

グレート・ムタを押し上げた「馳浩との大流血戦」

 武藤が群雄割拠のあの時代に特別な存在となったのは、個人としてもう一つ“別の顔”を持つようになったことも大きい。アメリカ遠征時代の忍者スタイルのキャラクター「グレート・ムタ」を逆輸入したのだ。

「最初に『グレート・ムタで試合してくれ』って言われたときは、それこそ『こんなもん、日本のファンは受け入れないだろう』と思ったんだよ。顔にペイントして、毒霧吹いたりしてさ。ただ、やるからには、何か新しいことをやらなきゃいけないって考えたよな」

 じつはアメリカでの「ムタ」と日本の「武藤」は、見た目や毒霧という違いはあったものの試合スタイルそのものの違いはほとんどなかった。しかし、日本で「ムタ」と「武藤」を別人格として使うなら、スタイルを分ける必要がある。そこで日本でのムタは、凶器を使い反則御構いなしの“悪の化身”としてヒールを前面に出したのだ。

「ムタで出た2試合目で、馳浩と大流血戦をやってね(90年9月14日、広島サンプラザ)。あれが地上波のテレビで流れたインパクトの大きさで、グレート・ムタのステータスが一気に上がったよな」

 これを機に「武藤」として以上に「ムタ」としてもブレイク。普段の試合では素顔の武藤として出場し、東京ドームなどビッグマッチはムタとして出場することが多くなった。ムタは新日本の興行的な切り札にまでなったのだ。ただし、ムタには武藤にはない苦労もあったという。

【次ページ】 高田延彦戦は「レスラー人生のピークだったかもしれない」

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