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古いアルバムに残る「23歳オシムと着物姿のアシマ夫人」サラエボの葬儀に参列した記者が聞く、“半世紀”を超える日本との深い交流とは 

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田村修一

田村修一Shuichi Tamura

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photograph byTakuya Sugiyama

posted2022/06/13 17:03

古いアルバムに残る「23歳オシムと着物姿のアシマ夫人」サラエボの葬儀に参列した記者が聞く、“半世紀”を超える日本との深い交流とは<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

2022年5月1日、80歳で逝去したイビチャ・オシム。日本との深い関わりを家族が明かした

 ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)の監督として2003年に来日するまでに、オシムは2度日本を訪れている。最初は1964年の東京五輪、次が2002年の日韓W杯である。特にユーゴスラビア代表として参加した東京五輪は、若いオシムの感性に強烈な印象を残した。ときに23歳。初の代表選出であり、初の海外遠征でもあった。

 オシムが何より驚いたのは日本の復興だった。第2次世界大戦の敗戦から19年。ひとり当たりの国民総生産(GNP)が戦前の水準を上回り、「もはや戦後ではない」という経済白書の言葉が流行語になったのは1956年のことだが、それからさらに8年を経て日本は先進国の仲間入りを果たそうとしていた。そのことを全世界に向けてアピールしたのが東京五輪であった。

 オシムが見た東京の夜の街はネオンで光り輝いていた。東海道新幹線をはじめとする列車の運行は正確で、大会の組織運営も素晴らしかった。もちろんまったく不満がなかったわけではないが、ボランティアや街の人々のホスピタリティがそれを十分に補っていた。日本という社会が持つ落着きと秩序に、彼は深い感銘を受けた。

 またオシム自身が大会を存分に楽しんだ。選手村での生活は充実し、他国選手との交流やイベントへの参加、食事も世界のさまざまな料理を堪能した。水泳や陸上など他競技の練習を見学したのは、後にラグビーやバスケットボール、ハンドボールなど他の球技の練習からサッカーへのヒントを見出す下地となった。マラソンコースをサイクリングした際には、折り返し地点にあった果樹園でもぎたての梨をごちそうになった。オシムの日本への好印象は、このときに形づくられたのだ。

 グループリーグを優勝したハンガリーに次ぐ2位で通過したユーゴスラビアは、準々決勝で統一ドイツに敗れ、非公式の順位決定戦(=5~8位決定戦。東京五輪のみ特例として認められた)に回った。日本と1回戦で対戦し、オシムの2ゴールでユーゴは日本を6対1と下した(日本の得点は釜本邦成)。オシム自身は4得点で大会を終えた。

「東京五輪があったから、日本での仕事を引き受けた」

 一般的にユーゴスラビアの選手が代表で活躍する期間は長くはない。鉄のカーテンに閉ざされていた当時の社会主義国にあって、ユーゴだけは28歳以上の国外移籍を認めていた。だがそれは、国外移籍を果たすと同時に、代表でのキャリアも実質的に終焉を迎えることを意味していた。西側社会の生の情報が、代表チームのなかに広まるのを危惧しての措置だったのだろう。

 オシムも例に漏れず、ユーゴ代表歴は16回(8得点)を数えるに過ぎない。怪我もあったとはいえ、彼のような一流レベルでは極めて少ないとさえいえる。その少ない代表歴のうちの5回が東京五輪であったのは、日本にとって幸運なことであったし、オシムにとっても幸運であったと思いたい。

「東京五輪の経験があったから、私は日本で監督の仕事を引き受けた」と、後に彼は語っている。

「そうでなければこれほど遠く離れた国で、しかもジェフという名も知らぬ小さなクラブで、仕事をしようとは思わなかっただろう」

 あらかじめ日本を知っていたからこそ、適応もスムーズだったとイルマは言う。

「メンタリティや文化を理解する。日本にやって来たのはイバンの方であるのだから、彼が日本に合わせる。実際に父は、ヨーロッパとは異なるあなた方のメンタリティを理解して、よく適応しました」

【次ページ】 “日本の天災”に心を痛めた理由

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イビチャ・オシム
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