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古いアルバムに残る「23歳オシムと着物姿のアシマ夫人」サラエボの葬儀に参列した記者が聞く、“半世紀”を超える日本との深い交流とは
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph byTakuya Sugiyama
posted2022/06/13 17:03
2022年5月1日、80歳で逝去したイビチャ・オシム。日本との深い関わりを家族が明かした
そしてオシム自身はかつて、東日本大震災に直面した日本へ向けて、Number本誌のインタビューでこう述べている。
「私自身は、日本という家族の小さな一員だと思っている。10年近く日本に住み、日本という国に愛着を感じていれば、心が日本人になるのは当然だ。髪の色や目の色は変えられなくとも、心は日本人だ」と。
64年の初来日のときから、地震への不安はあった。日本に住むようになってからは、台風なども含めた日本を定期的に襲う自然災害への憂慮へと変わっていった。
「なぜ日本ばかりが、同じような災害に襲われなければならないのか」
日本が天災の国であるならば、ボスニア・ヘルツェゴビナは人災の国である。古くはオーストリア=ハンガリー二重帝国とオスマントルコ帝国の国境であり、ヨーロッパの火薬庫といわれたバルカン半島の中でも、ムスリム系、ギリシャ正教系、カトリック系が対立するボスニアは、その導火線ともいえる位置にあり、実際に第1次世界大戦の契機となったオーストリア皇太子の暗殺はサラエボで起こった。その対立が再び顕著となって勃発したのが1990年代のユーゴ内戦でありサラエボ包囲戦だった。
サラエボ包囲戦では家族との連絡を2年以上絶たれ、人災を身をもって経験したオシムは、日本の天災にも心を痛めた。だが、同時に彼は、第2次大戦から見事に復興し、東京五輪を実現させた日本人のエネルギーと勤勉さを信じ期待した。先にあげた東日本大震災に際してのメッセージで、彼はこんなことも述べている。
「私が少しポジティブでいられるのは、あなた方がこれまでの歴史において、自分たちの方が、人間の方が自然よりも強いということを見せてきているからだ。幾度となく地震に見舞われ、災害に襲われても、そのたびに日本人は立ち上がった。自然に打ちのめされても、他のどの国の人々よりも早く街を復興させた。同じことを、今度もまたやって欲しい。神戸や新潟がそうであったように、できるだけ早く、元の状態に戻すことを。日本人にはそれができると私は信じている」
「長い旅行には、彼の心臓が耐えられなかったでしょう」
脳梗塞に倒れ、任期半ばで日本代表監督を辞し、日本を離れざるを得なくなったことで、日本への思い、ピッチへの思いはますます強くなった。
「もう一度、どこかで指揮を執りたい。ジェフのような小さなクラブで」
「どこか私を雇ってくれるクラブはないのか。今なら走ることだってできるぞ」
折々のインタビューで、オシムはそんな言葉を伝えてくれた。だが、それが難しいことは、オシム自身が一番よくわかっていた。アシマ夫人もいう。
「イバンの健康状態が良くて、誰かがエアチケットを送ってくれたら、日本にもう一度行くことができるのにと。彼とはそんなことをよく話していました。ただイバンには難しかった。日本は遠すぎました。長い旅行には、彼の心臓が耐えられなかったでしょう。身体もきつかった」
日本への率直な気持ちを彼女はこう述べている。
「日本には心から感謝しています。ジェフも試合の際に追悼セレモニーを行ったそうですし、様々なメディアがイバンのことを取りあげた。彼の言葉を紹介して、改めて彼を称えてくれた。今回のことばかりではありません。私たちが日本にいたときから皆さんはとても親切で、日本という国に来て本当に良かったと思っていました。イバンが倒れたときの処置や心遣い。グラーツに戻った後も励ましの言葉をいただいた。私たち家族は、そのことを心から喜んでおり感謝しています」
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