ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「馬場が登場しないなら番組を打ち切る!」放映権をめぐる因縁、“猪木・坂口合体計画”も頓挫…人気絶頂から日本プロレスはいかに崩壊したか?
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/05/10 11:03
1960年代後半に第2次プロレスブームを起こすなど絶大な人気を誇った“BI砲”、ジャイアント馬場とアントニオ猪木
日プロに迫る“崩壊へのカウントダウン”
こうして72年3月に猪木が新日本プロレスを旗揚げしたのに続き、10月には馬場も全日本プロレスを旗揚げ。日プロは絶頂期からわずか7カ月の間に、猪木と馬場の両エースと、日本テレビの中継を失った。こうなると、もはや崩壊へのカウントダウンは進む一方だ。
それでも日プロは、新インターナショナル王者・大木金太郎と坂口征二を二枚看板にして、日本人陣営強化のためにアメリカから高千穂明久(のちのザ・グレート・カブキ)を凱旋帰国させ、外国人レスラーもできる限りの大物を招聘。なんとか人気回復に努めたが、馬場&猪木時代と比べると、観客動員数、視聴率とも比べ物にならないほど低い数字だった。
もはや崩壊待ったなしの状況。これにもっとも危機感を抱いたのは、団体よりむしろ、試合を中継するNETだった。念願のエース・馬場登場を実現させたのもつかの間、そのエースを日本テレビに持っていかれてしまったのだ。このまま、大木、坂口、高千穂中心の放送では、ジリ貧になることは目に見えている。
NETが極秘裏に進めた「猪木・坂口合体計画」
NETは週2回だった放送を金曜8時に一本化すると、水面下で「猪木・坂口合体計画」を進行させた。これは双方にとって意味がある計画だった。新日本には猪木というスターがいるが、テレビ放送がない。日プロにはNETのテレビ放送はあるが、スターがいない。そんな苦しい状況を打破する大胆な計画が、新日本と日プロの合体だったのだ。
NETは72年9月から猪木側と極秘裏に交渉を重ね、73年1月ついに合意に達する。そして73年2月8日、猪木と坂口がNET首脳と共に記者会見を開き、4月からの新日本と日プロの合体を発表。新たに「新・日本プロレス」として、NETバックアップのもと再スタートを切ることとなったのだ。
これは日本プロレスの芳の里社長も了承済みのことだったが、この合体に待ったをかけた男が現れる。日プロの選手会長である大木金太郎だ。会見時に韓国にいた大木は、帰国するや「選手会長である自分は全く聞いてない。これでは猪木の会社乗っ取りを認めることになる」と、日プロと新日本の合併に猛反対した。
馬場と猪木がいなくなった後、ついに力道山ゆかりのインターナショナルヘビー級のベルトを巻いた大木にしたら、この合併によって再び猪木の下になるのは避けたかった部分もあるのだろう。理由はどうあれ、この大木の猛反対によって新日本と日プロの合併案は白紙に。それでもNETの「猪木・坂口の出る団体を放送する」という方針は変わらず、結局、“坂口派”の選手数人が日プロから新日本に移籍し、73年4月からNETは新日本を放送することを決定した。
プロレス界は新日本と全日本の時代へ…
それでも大木や日プロ幹部は「NETは4月以降も新日本と並行して、うちの放送を続けてくれるだろう」と、例によって楽観視していたという話もある。しかし、テレビ局がそんな温情を見せるはずもなく、日本プロレス中継は、3月いっぱいで容赦なく打ち切られた。
猪木・馬場の離脱以降、テレビの放映権料でなんとか会社を回していた日プロは、NETが離れるとすぐさま興行機能を失った。最後は選手会がカネを出し合って、4月から決まっていた「アイアンクロー・シリーズ」だけは開催するも、73年4月20日の群馬・吉井町体育館での興行を最後に、あっけなく19年の歴史に幕を閉じた。
盛者必衰の理。この日本プロレスという帝国の“自滅”を受け、プロレス界は猪木・新日本と馬場・全日本が熾烈な争いを展開する時代を迎える。そしてそれは大きく形を変えながらも現在へとつながっているのだ。
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