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「馬場が登場しないなら番組を打ち切る!」放映権をめぐる因縁、“猪木・坂口合体計画”も頓挫…人気絶頂から日本プロレスはいかに崩壊したか? 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/05/10 11:03

「馬場が登場しないなら番組を打ち切る!」放映権をめぐる因縁、“猪木・坂口合体計画”も頓挫…人気絶頂から日本プロレスはいかに崩壊したか?<Number Web> photograph by AFLO

1960年代後半に第2次プロレスブームを起こすなど絶大な人気を誇った“BI砲”、ジャイアント馬場とアントニオ猪木

日テレ「日本プロレス中継」があっけなく終了した日

 日プロは、NETの中継に馬場以外の好カードを回すことで事態打開を図ったが、当然その程度では視聴率は回復しない。業を煮やしたNETは再度、日プロに対して馬場の登場を強く求め、「(72年)4月から馬場を登場させられないのであれば、(契約が終わる)3月いっぱいで番組を打ち切る」と強硬な最後通告に打って出た。

 完全に両局の板挟みとなった日プロは、とうとうNETの要求を受け入れてしまう。日テレ、三菱電機との約束を破り、72年4月3日の放送からエース馬場をNETの放送に登場させたのだ。これは日プロ幹部が「たとえ馬場をNETに出しても、高視聴率を稼ぐ日本プロレス中継を、日本テレビが手放すはずがないだろう」と、事態を楽観視していたためだと言われる。

 しかし、再三警告していたにもかかわらず、それを無視した“裏切り行為”に日テレは激怒。馬場がNETに登場した翌日、すぐさま東京地裁に「馬場のNETプロレス中継への出場停止」を求める仮処分を申請。それでも日プロ幹部が話し合いに応じなかったため、ついに日プロ幹部との絶縁及び、日本プロレス中継の打ち切りを決定した。

 発表の席で、日本テレビの松根光雄運動部長(当時)は「もっと常識ある社会人かと思っていたが、子供みたいな感覚しか持ち合わせていないことがよくわかった」と、日プロ幹部を痛烈に批判。力道山時代から続いた、金曜夜8時の超ドル箱番組『三菱ダイヤモンドアワー ・日本プロレス中継』は、幹部のあまりにも緊張感のない対応が仇となって、こうしてあっけなくその歴史に幕を閉じた。

NET放送開始翌日に起きた衝撃の「馬場の独立」

 こうなると逆に勢いづくのはNETだ。日テレ撤退によって、日本プロレス中継が独占放送となると、従来の月曜夜8時からの放送に加え、72年7月28日から日テレが手放した伝統の金曜夜8時枠でも放送を開始。異例の同一局による週2回放送となったのだ。

 これによって「馬場と坂口の新エースコンビを軸にして、日テレの中継がなくてもやっていける」と、またしても日プロ幹部は状況を楽観視した。しかし、NETの金曜8時放送が開始した翌日の7月29日、大激震が走る。馬場が日本プロレスに辞表を提出。独立を発表したのだ。

 会見で馬場は「恩のある日本テレビとの縁を絶ち難く、日本プロレスから独立することにしました。テレビ放送の約束はまだありませんが、新団体を結成し、日本テレビのブラウン管に乗りたい」と語ったが、もちろんこれは表向きの発言だ。

 じつのところ日テレは、日本プロレス中継を打ち切った直後から日プロの大エース馬場を独立させるために動き、「旗揚げにかかる資金はすべて用意する。放映権料も最大限用意する」と最高条件を提示し、馬場を口説きにかかっていた。日テレにとって欲しかったのは、あくまでジャイアント馬場を頂点にした、プロレスというコンテンツ。話のわからない幹部が牛耳る日本プロレスという“団体”ではなかったのだ。

【次ページ】 NETが極秘裏に進めた「猪木・坂口合体計画」

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