ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「馬場が登場しないなら番組を打ち切る!」放映権をめぐる因縁、“猪木・坂口合体計画”も頓挫…人気絶頂から日本プロレスはいかに崩壊したか?
posted2022/05/10 11:03
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
今年はプロレス界の老舗団体、新日本プロレスと全日本プロレスがともに創立50周年を迎えた記念イヤー。
1972年にアントニオ猪木が新日本を、ジャイアント馬場が全日本を旗揚げして半世紀が経ったわけだが、その両団体設立の陰で1973年に消滅した団体がある。プロレスの父・力道山が1953年に設立した日本プロレスだ。
日本プロレス(以下、日プロ)は戦後の日本で大プロレスブームを巻き起こし、1963年の力道山死後、一時人気が低迷するもその後は力道山の弟子であるインターナショナル王者・馬場とUN王者・猪木がWエースとなり人気が再燃。馬場&猪木のタッグチーム“BI砲”人気は凄まじく、金曜夜8時に日本テレビで放送されていた『三菱ダイヤモンドアワー・日本プロレス中継』の視聴率は、常時25~30パーセントを記録。60年代後半、第2次プロレスブームを巻き起こした。
しかし、その第2の絶頂期は突然終わりを告げる。ある理由によって、72年5月に日本テレビの中継が打ち切られると、日本プロレスは坂道を転げ落ちるように人気を落としていき、それからわずか1年足らずで団体崩壊してしまったのだ。
なぜ日本プロレスは、力道山時代から蜜月関係にあった日本テレビに見限られ、瞬く間に消滅したのか。帝国滅亡までを追ってみよう。
猪木が“NETのエース”になった日
最初にほころびが生じたのは1969年だ。当時は、日本テレビの『日本プロレス中継』だけでなく、TBSの『TWWAプロレス中継』(国際プロレス)も高視聴率を獲得していた時代。この人気に、それまでプロレスを扱っていなかったテレビ朝日の前身NETテレビも中継に名乗りを上げ、日プロに対し「日本テレビの中継は続けたままでいいので、うちにも中継させてほしい」と要請したのだ。
2局放送となれば単純に放映権料が2倍入ってくる。日プロにとってはきわめておいしい話だ。幸い、日本テレビとは独占契約は結んでいなかったので、契約的にも問題はない。ただし、力道山時代からコンビを組んできた義理を通す必要があると考え、日本テレビとスポンサーの三菱電機にうかがいを立てると、「エース・ジャイアント馬場をNETには登場させない」ことを条件に、了解を得ることに成功したのだ。
こういった経緯を経て、69年7月からNET版の日本プロレス中継『ワールドプロレスリング』が、毎週水曜夜9時から放送開始(翌年4月からは月曜夜8時に昇格)。馬場を登場させることのできないNETは、必然的に“ナンバー2”だった猪木を中心とした番組構成となり、猪木は“NETのエース”となったのだ。
ここから日本プロレスは日テレの馬場、NETの猪木という、真の2大エース時代を迎えるが、それがのちに団体分裂、日本テレビの撤退へとつながる火種となる。
とはいえ、2局放送となった日プロは、凄まじい収益を上げていた。2局から放映権くるだけでなく、猪木がNETの主役となったことで、人気面でも馬場に迫るようになり、観客動員はさらに増えていったのだ。