ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「馬場が登場しないなら番組を打ち切る!」放映権をめぐる因縁、“猪木・坂口合体計画”も頓挫…人気絶頂から日本プロレスはいかに崩壊したか?
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/05/10 11:03
1960年代後半に第2次プロレスブームを起こすなど絶大な人気を誇った“BI砲”、ジャイアント馬場とアントニオ猪木
一部選手のリーク、懐柔工作…猪木は裏切られた
しかし、そんな絶頂期にもかかわらず、日プロの経営状態は決して安泰とは言えなかった。幹部たちによるあまりにもどんぶり勘定な放漫経営で、これだけの売上がありながら、会社の内情は火の車というひどい有様だったのだ。
ここで立ち上がったのが猪木だ。選手会長だった馬場や上田馬之助に働きかけ、日本プロレスの経理に関する不正を糾弾し、芳の里淳三、吉村道明、遠藤幸吉の三幹部追放を訴えるべく動き出す。
猪木はまず、自らの後援会長でもある税理士の木村昭政に日本プロレスの経理を調べさせ、多額の使途不明金を突き止める。そして所属全選手の署名入りの幹部追放嘆願書を作成。これは要求が受け入れられない場合、全員が退団するというものだった。改革決行の日は71年12月13日に決定。臨時株主総会を開き、役員の改選、つまり幹部追放に動くはずだった。
しかし猪木のこの動きは、一部選手のリークもあり、事前に幹部に知られてしまうことになる。ここから幹部の懐柔工作によって主力選手たちは土壇場になって寝返り、逆に「猪木は社内改革と称し、会社乗っ取りを謀った」として、幹部会で猪木の除名処分が決定してしまうのだ。
日プロ幹部の“大きな誤算”
こうして日プロの幹部追放騒動は、猪木が会社乗っ取りの汚名を着せられ、逆に追放となることで決着。日プロを追われた猪木は翌72年3月、テレビ放送もないなかで新日本プロレスを旗揚げする。幹部たちは高を括っていたのだ。猪木一人がいなくなったところで、日プロはびくともしないと。しかし、これをきっかけに日プロは徐々に崩壊へと突き進んでいくことになる。
猪木追放後、新たな“NETのスター”として坂口征二を擁立。日プロ幹部は、猪木より身体が大きく、柔道日本一の実績を持ち、マスクもいい坂口なら、すぐにでも猪木の穴を埋めることができると考えていた。しかし、坂口と大木金太郎中心となったNET『ワールドプロレスリング』の視聴率は急落。それまで平均15%あった視聴率は、1ケタ台を記録するようになってしまった。
猪木のスリリングで刺激的なプロレスを見慣れた視聴者にとって、坂口や大木の単調なプロレスは、あまりにも退屈に映った。猪木の代わりができるレスラーなど、日プロには存在しなかったのだ。
この視聴率急落に慌てたのは、もちろんNETだ。下がり続ける視聴率に歯止めをかけるべく、日プロに対しエース・馬場の登場を強く要求した。これを受けて日プロの芳の里社長は、日本テレビに対して「馬場のNET登場容認」を願い出るが、日テレ側はこれを断固として拒否。逆に「もし馬場がNETに出るようなことがあれば、ウチは日本プロレス中継から手を引く」と通告してきたのだ。