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高木美帆「顔が死んでいたけど大丈夫?と連絡が…」“考え抜いた北京五輪”知られざる舞台裏を告白「最後に、もうこれ以上はできないと」
posted2022/05/22 06:00
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph by
Kosuke Mae
日本の女性アスリートとして数々の歴史を塗り替えた北京五輪から約1カ月半。桜並木の前で、高木美帆は柔らかな表情を浮かべていた。
「きょうはいっぱい話しましょ」
高木の声で、濃密だった北京での日々が一気によみがえった。
開会式翌日の3000mから始まり、2月7日の1500m、12日のチームパシュート1回戦、13日の500m、15日のチームパシュート準決勝と決勝、17日の1000m。5種目7レースに挑んだ13日間は迷いや苦悩の連続だった。好結果の後、アクシデントで悲嘆を味わう時もあった。そして、最後は金メダルの歓喜に包まれながら涙した。
開幕直前のデビッドHC離脱には…
高木にとって3度目の五輪は、波乱のスタートとなった。開会式2日前の2月2日、ナショナルチームのヨハン・デビットHCが新型コロナウイルス陽性となり、チームを離脱したのだ。
「コロナに関しては、いつ誰が罹ってもおかしくないという覚悟がありましたから、『どうしよう?』とはなりませんでした」
とはいえ、2015年から7年間にわたって近くにいたコーチが離脱したのだから、影響は当然あった。高木にとってヨハンHCは、自身の細かな変化を映し出す鏡のような存在だった。例えば、ウォーミングアップの時に陸上で行なうカーブワークの疑似練習。腰に紐を巻いた選手をコーチが引っ張るトレーニングには、その日の調子を知るための情報が詰まっている。ミリ単位のカーブワークを誇る高木にとっては、コーチの口調や表情も調子を計るバロメーターの一つ。つねに人一倍感度の高いセンサーを駆使しながら修正すべき課題を察知してきた。しかし、「それがポコンとなくなった」のだ。