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アントニオ猪木「イメージなんかどうでもいい。国会議員として命を懸ける」…湾岸危機の人質解放につながった“イラク行きの覚悟”
posted2022/05/01 17:02
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
ところで、いきなり話は変わるが、私はサッカーのディエゴ・マラドーナも追いかけていた。前述のように1986年のワールドカップ・メキシコ大会で「神の手」や「5人抜き」を見て、私はマラドーナのとりこになった。
「もっとマラドーナを撮りたい」
そして、1986年10月からイタリアのナポリでマラドーナを本格的に撮り始める。
マラドーナは魅力的だった。試合中はマラドーナだけを見ていれば、充分だった。練習場にも毎日のように足を運んだ。当時のチームの監督からは「ピッチのラインより中には入らないでくれ」と言われたが、後は近づこうが、離れようが自由に撮影できた。
「いつかカストロ、猪木、マラドーナの3ショットを」
ある日、マラドーナに手招きされ、ピッチのど真ん中で自分の子どもと遊んでいるプライベートショットも撮らせてもらった。その後、私が撮影済みのフィルムを練習場で落としてしまったら、マラドーナは「これは大事な物だろう」と拾って届けてくれた。
私は1986年11月に、東京で1日限りの写真展を開いた。タイトルは、『アントニオ猪木とディエゴ・マラドーナ』。その名の通り、2人の写真だけを展示し、猪木も多忙の中、来場してくれた。
私は猪木と雑談をしている時に、よくマラドーナの話をしていた。そのせいか、後には猪木の方がマラドーナのことを気にかけるようになり、「最近はどうしてるの?」と質問されることもあった。
1990年のワールドカップ・イタリア大会が終わると、そのマラドーナにスキャンダルが発生する。薬物をめぐるマフィアとのトラブルも報じられた。私が「スキャンダラスなところは猪木さんとそっくりですよね?」と言うと、猪木は無言で笑っていた。
1994年のワールドカップ・アメリカ大会が終わった後には、いつの間にか、ぶくぶく太ってしまったマラドーナがいた。それに手を差し伸べたのがキューバのカストロ議長だった。
「いつかキューバで、カストロ、猪木、マラドーナという凄い組み合わせの3ショットを撮りたいな」