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アントニオ猪木「イメージなんかどうでもいい。国会議員として命を懸ける」…湾岸危機の人質解放につながった“イラク行きの覚悟”

posted2022/05/01 17:02

 
アントニオ猪木「イメージなんかどうでもいい。国会議員として命を懸ける」…湾岸危機の人質解放につながった“イラク行きの覚悟”<Number Web> photograph by Essei Hara

1990年9月、参議院議員のアントニオ猪木は中国を訪問。当時勃発していた湾岸危機を受けて、同地で大きな決断を下すことになる

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原悦生

原悦生Essei Hara

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Essei Hara

アントニオ猪木がキューバでフィデル・カストロ議長と親交を深めた1990年、中東ではイラクが隣国クウェートに侵攻。クウェートに残留していた日本人を含む多くの外国人を「人間の盾」として人質にとった。当時、中国を訪れていた政治家・猪木は、この湾岸危機にどのように向き合ったのか。“燃える闘魂”を50年間にわたって撮り続けたカメラマンが明かす、「人質解放」に至るまでの猪木の覚悟とは。(全2回の2回目/前編へ) ※本稿は原悦生氏の著書『猪木』(辰巳出版)の一部を抜粋、再編集したものです。

 ところで、いきなり話は変わるが、私はサッカーのディエゴ・マラドーナも追いかけていた。前述のように1986年のワールドカップ・メキシコ大会で「神の手」や「5人抜き」を見て、私はマラドーナのとりこになった。

「もっとマラドーナを撮りたい」  

 そして、1986年10月からイタリアのナポリでマラドーナを本格的に撮り始める。

 マラドーナは魅力的だった。試合中はマラドーナだけを見ていれば、充分だった。練習場にも毎日のように足を運んだ。当時のチームの監督からは「ピッチのラインより中には入らないでくれ」と言われたが、後は近づこうが、離れようが自由に撮影できた。

「いつかカストロ、猪木、マラドーナの3ショットを」

 ある日、マラドーナに手招きされ、ピッチのど真ん中で自分の子どもと遊んでいるプライベートショットも撮らせてもらった。その後、私が撮影済みのフィルムを練習場で落としてしまったら、マラドーナは「これは大事な物だろう」と拾って届けてくれた。

 私は1986年11月に、東京で1日限りの写真展を開いた。タイトルは、『アントニオ猪木とディエゴ・マラドーナ』。その名の通り、2人の写真だけを展示し、猪木も多忙の中、来場してくれた。

 私は猪木と雑談をしている時に、よくマラドーナの話をしていた。そのせいか、後には猪木の方がマラドーナのことを気にかけるようになり、「最近はどうしてるの?」と質問されることもあった。

 1990年のワールドカップ・イタリア大会が終わると、そのマラドーナにスキャンダルが発生する。薬物をめぐるマフィアとのトラブルも報じられた。私が「スキャンダラスなところは猪木さんとそっくりですよね?」と言うと、猪木は無言で笑っていた。

 1994年のワールドカップ・アメリカ大会が終わった後には、いつの間にか、ぶくぶく太ってしまったマラドーナがいた。それに手を差し伸べたのがキューバのカストロ議長だった。

「いつかキューバで、カストロ、猪木、マラドーナという凄い組み合わせの3ショットを撮りたいな」

【次ページ】 湾岸危機に立ち上がった政治家・猪木

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