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日本で“プロ野球”史上初の試合があったスタジアムはどこ? 「あの沢村栄治がボコボコに打たれた」愛知の“消えた野球場”、今は何がある? 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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photograph byMasashi Soiri

posted2022/04/27 17:02

日本で“プロ野球”史上初の試合があったスタジアムはどこ? 「あの沢村栄治がボコボコに打たれた」愛知の“消えた野球場”、今は何がある?<Number Web> photograph by Masashi Soiri

1936年2月9日に行われた日本の“プロ野球”チーム同士の初めての試合。その舞台になった鳴海球場、今は何がある?

 開場したのは1927年。関西の甲子園、東京の神宮のような本格的な野球場を名古屋にも、という目的で土地を所有していた愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)が沿線開発の一環で建設した。両翼106m、中堅136mという大きさは甲子園球場をもしのぐ規模で、開場当時の収容人員は2万2500人。巨人軍と金鯱軍の試合の翌年には観客席を拡張し、甲子園のアルプススタンドに対抗して“伊吹スタンド”が設けられている(伊吹山にちなんだものだとか)。

 鳴海球場が隆盛を誇った戦前期、愛知県はとにかく野球が強かった。1931年から1933年にかけては中京商業(現在の中京大中京)が夏の甲子園を三連覇。さらに中京商業は1937年も夏の甲子園で優勝し、翌年春もセンバツで優勝している。この中京商業黄金時代、もちろん鳴海球場は彼らの活躍の舞台として、甲子園に精鋭たちを送り出している。

 さらに1931年、1934年には日米野球も行われ、ルー・ゲーリックやベーブ・ルースも鳴海球場でプレーしている。

ナゴヤ球場ができて、1958年に“消えた”

 人気絶頂の中等野球での中京商業の快進撃に加え、日米野球にプロ野球となれば鳴海球場は大賑わい。観客席は甲子園さながらの鉄傘で覆われて、少し高台になっていた外野席の後ろ通りにもお客がつめかけて文字通りのすずなりだったという。まったくもって、鳴海球場は中部地方における“野球の聖地”だったのだ。

 金鯱軍が発足してからはその本拠地球場となり、戦後は中日ドラゴンズの主催試合も行われている。ただ、1948年の年末に中日スタヂアム(現在のナゴヤ球場)が完成すると、翌年からはそちらが中日のメイン球場となり、鳴海球場は二軍の練習場に“格下げ”されてしまう。高校野球の試合では変わらずに使われて、1951年にナゴヤ球場が火災に遭った際には代替球場として鳴海球場でも一軍の公式戦が行われている。

 ただ、プロの試合を失えば経営面では大打撃。この時期にはさらにスタンドを増設して収容人員を4万人までに増やしているが、あまり意味はなかった。球場を保有していた名古屋鉄道は1951年にドラゴンズの経営に参画したが、たった2年後の1953年に撤退し、鳴海球場の経営は悪化の一途を辿った。そして、1958年10月31日をもって廃止されたのである。

【次ページ】 消えた鳴海球場、今は何がある?

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