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日本で“プロ野球”史上初の試合があったスタジアムはどこ? 「あの沢村栄治がボコボコに打たれた」愛知の“消えた野球場”、今は何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byMasashi Soiri
posted2022/04/27 17:02
1936年2月9日に行われた日本の“プロ野球”チーム同士の初めての試合。その舞台になった鳴海球場、今は何がある?
消えた鳴海球場、今は何がある?
廃止後の鳴海球場は、ダイヤモンドの形をそのままに自動車学校になっている。航空写真でみれば一目瞭然で、まだ野球場だった頃とまったく変わらない形の教習場。球場を保有していた名古屋鉄道が球場跡をまるごと名鉄自動車学校に衣替えして1959年にオープンしたのだ。鉄道会社が自動車学校とはなかなか興味深いが、名鉄のバス事業の本格化や近い将来クルマ社会が到来するであろうことを見越したものだったとか。いまの名古屋のクルマ社会ぶりを見れば、慧眼というほかないだろう。
ただ、鳴海球場時代の名残はいまでも存分に残っている。ダイヤモンドそのままの形状もそうだし、何より60年以上前に現役だったスタンドが残っているのだ。
名鉄の鳴海駅からかつて東海道の宿場町だったあたりを抜けて10分ばかり歩くと、住宅地の中に名鉄自動車学校がある。かつてドラゴンズ二軍の合宿所になっていたという事務棟から通りを隔ててスタジアム……もとい教習場。中を見せてもらうと、教習コースの真ん中に金のホームベースと鳴海球場があったことを示す説明書きが置かれている。2007年に教習コースを改装したのにあわせて、かつての本塁の位置(の近く)に設けられたものだ。
さらに教習コースの外側には、かつてのスタンドがほんとうにそのまま残っている。といっても、4万人収容のスタンドがそのまま残っているわけではなく、グラウンド側はかなり削り取られているし、バックネット裏や外野のスタンドももはやない。ただ、内野スタンドの一部はまったく当時のままだ。
このスタンドの下は、職員の休憩所や車庫として使われているのだという。外野寄りのスタンドの下に行ってみると、通路からスタンド席に登る階段の跡とおぼしき空間が残されていたり、古い時代の窓枠がそのまま残っていたり、自動車学校とは思えない独特な空間があった。
さらに外側に出てみると、アーチ状の球場ゲートが残っている。中は埋められているのでゲートをくぐってスタンドへ、とはいかないのだが、経年劣化なのかゲートを埋めたあとがひび割れてきているのも、時代を感じさせる鳴海球場遺産のひとつといっていいだろう。
鳴海球場跡の記念プレートなどは、教習の休憩時間ならば見学することができるといい、地元テレビ局などもときどき取材に訪れるとか。
いま、名鉄自動車学校で教習を受けている人たちは、この古びたナゾのスタンドがかつての“野球の聖地”の残滓だということは知っているのだろうか。ベーブ・ルースも沢村栄治も戦った、そして中京商業の快進撃を支えた中部地方随一の大球場。ほんの少し歯車のかみ合わせが違っていれば、甲子園球場や神宮球場のようにいまもドラゴンズの本拠地だったのかもしれない。教習場の外周をぐるりと歩きながら、そんなことを考えた。中部地方の野球の聖地は、“クルマ社会”名古屋を支える教習場になっている――。
(写真=鼠入昌史)