マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
「暴力団、殺し、誘拐…ヌード以外、何でも撮りました」80歳現役カメラマンは何を目撃してきた?「私、長嶋さんの立教大時代も見たんです」
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byKYODO
posted2022/04/13 17:01
1954年~58年まで立教大で活躍した長嶋茂雄。58年に巨人入団
長嶋選手への憧れもあって進学した立教大学で、「不完全燃焼」を晴らしてやろうと意気込んで入部志願に行ったら、
「都立駒場? 聞いたことねぇな、ダメ、ダメ……って、もうそれだけですよ」
仕方なく、ファンとして通った東京六大学の神宮球場。まさか、そこが80歳までの「職場」になろうとは、夢にも思わなかったという。
写真の手ほどきを受けたことがあって、立教大学を卒業すると、カメラマンとして朝日新聞社に入社した1960年代後半は、世情騒然とした時代だった。
「国会、暴力団の抗争、大学紛争、殺し、誘拐……ヌード以外、なんでも撮りました。ベトナム戦争もあったし、ヨーロッパもザワザワしていた時代ですよ。私、ウクライナにも、三回行ってます」
写真に添えて、記事を書いて送ることも多かった。
「カメラマンが記事も書けば、出張旅費が一人分で済むわけですよ。新聞社が、そういうカメラマンを育てようとしていた時代だったんです。私なんか、別に、写真の学校に行って勉強したわけでもない。とにかく、被写体がいくらでもあった時代だったから、行けと言われたら、どこへでも行って、なんでも撮った。そんなたたき上げですから、“経験”に育ててもらったのが、私の写真なのかもしれないですね」
現場のカメラマンを20年も経験すると「デスク」という管理職に昇進するのだが、この「中での毎日」が退屈だった。
「やっぱり、染みついちゃってるんですよ。現場に出たいってね。それに、それまでは『朝日』って看板しょってたでしょ。肩書き外して、自分がどれだけできるのか……そういう怖いもの見たさみたいな思いもあって」
60歳の定年から、フリーのカメラマンとして「第2の人生」を踏み出した。
「いちばんビックリしたのは、江川卓ですね」
サッカーJリーグの現場での活動は、朝日新聞時代から豊富だった。そこから「野球」に力点をきり替えた。なにかと制約の多いプロ野球よりも、持ち味と考える「フットワーク」をより生かせるだろう……と、アマチュア野球の現場をホームグラウンドにした。
「法政時代の江川(卓、元巨人)を撮りに行ったのは、まだ私が朝日のカメラマンの頃ですけど、やっぱりいちばんビックリしたのは、彼ですね。1球1球、投げる姿にオーラがあって、投げるボールもとんでもなく凄かったけど、もっと驚いたのは、態度ですよ。当時の五明(公男)監督が、わざわざブルペンの江川のとこに行って、写真撮るからよろしくな……みたいに言ったら、軽くうなずくだけで、はい!でも、わかりました!でもない。そういうの、私の常識の中にはなかった。ああ、別格なんだなぁ…ってね」
野手にビックリした記憶がないのは、カメラマンだったからだという。
「私ら、ファインダーの中しか見えないわけですよ。バッターだったら、インパクトの瞬間を狙ってるわけで、その前後のスイングとか打球のゆくえとか、ほとんど見てない。しかも、アップで撮るから、見えてる部分も狭いでしょ。どうしても、野手の印象は薄くなっちゃうんですね」
一式200万円のカメラ
多くの球場では、大友さんがカメラを構えるカメラマン席は「丸腰」である。つまり、前から、頭上から飛んでくるボールをさえぎるネットのようなものはない。撮影の邪魔になるからだ。