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ユベントス留学から帰国した中田英寿の“変貌”…岩本輝雄がベルマーレを去った理由と、仙台での復活「ベガルタで引退したかった」
posted2022/04/08 17:03
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
J.LEAGUE
「湘南の暴れん坊」と呼ばれたベルマーレ平塚は1994年のニコスシリーズ(2ndステージ)で2位に躍進した勢いをそのままに天皇杯で優勝し、Jリーグ初参戦のシーズンを締めくくった。
その年のベストイレブンにはベッチーニョと名塚善寛が選出され、新人王には田坂和昭が輝いた。さらに、岩本輝雄と名良橋晃が日本代表デビューを飾るなど、ベルマーレ旋風の巻き起こったシーズンだった。
そんなタレント揃いのチームで翌95年、なんと高卒ルーキーがポジションを掴みとる。
93年のU-17世界選手権に出場した中田英寿である。
シーズンの幕開けを告げるゼロックススーパーカップで中田は途中出場してデビューを果たす。
「スーパーカップのときは、そこまで凄いとは思わなかったな。ただ、中田が中盤に入ったことで、俺が左サイドバックに戻って。中田はよく動くし、何かが違ったんだよね」
その何かが岩本の中ではっきりと理解できたのは、Jリーグ開幕から約1カ月後に行われた、20歳以下の世界選手権であるワールドユースだった。
U-20日本代表の中心選手だった中田は、カタールで開催されたこの大会に出場していた。
その試合をテレビで見て、岩本は軽い衝撃を覚える。
「裏への飛び出しのタイミングが抜群なんだよ。足が速いわけではないのに、ボールを引き出してシュートに持ち込んで。今ではそういう選手は多いけど、当時はあまりいなかった。しかも、両足で蹴れるでしょ。それで、こいつ、すげえなって」
スルーパスの出し手のイメージが濃い中田だが、この頃はパスの受け手として優れた才能を発揮していた。
「実際、ベルマーレでも1年目から8点取ったよね。中田はミドルシュートもいいものを持っていた。ペナの外から打っても全部入りそうな感じがしたもんね。そのあたりは、ちょっと違うなと」
ユベントス短期留学から帰国した中田
もっとも、岩本の中で5歳下の青年の印象が決定的に変わるのは、翌シーズンを迎えてからだ。
「中田は1年目が終わったあと、ユベントスに短期留学に行ったんだ。そこから人が変わったように喋らなくなって、黙々と筋トレをし始めた。あいつ、68キロくらいだったんだけど、7、8キロ増やしたから『重くないの?』って聞いたら、『重いけど、慣れたらやれるし、これくらいにしないと(世界では)やれない』と言うわけ。キラーパスって、味方も取れないようなスピードのパスを出すようになったのも、あいつの中で基準ができたんだろうね」