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元日本代表10番・岩本輝雄が語る“94ベルマーレ旋風”…ヴェルディにボコられたJリーグ初陣、実は鹿島ジーコから誘われていた?
posted2022/04/08 17:02
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
J.LEAGUE
時代は高校サッカー人気の全盛期。冬の高校選手権では、国見高と鹿児島実業高による初の九州勢同士の決勝が行われ、超高校級と騒がれた清水商業高の2人、山田隆裕は日産自動車サッカー部へ、名波浩は順天堂大へ進むことになっていた。
そんななか、未来の日本代表の10番はひっそりと進路を変えていた。
「日体大に決まっていたんだけど、ちょっとした縁でフジタ工業の石井義信さん(当時部長)、古前田充さん(当時監督)、上田栄治さん(当時コーチ)が試合を見にきてくれて。『いいじゃん』ということになって、すぐに『来ないか』って。うち、母子家庭だったからさあ。サッカーでお金がもらえるなら、そっちのほうが絶対にいいやって。(1990年)6月くらいだったかな」
のちにJリーグ黎明期を彩り、アイドル級の人気を誇ることになる岩本輝雄だが、横浜商科大学高時代は、まったくの無名だった。
「神奈川県のベスト4止まりだからね。俺、高校サッカーオタクだったから、(3つ上の)ノボリさん(澤登正朗)や(1つ上の藤田)俊哉が大好きで。同級生の山田や名波のことも、すげえなって思ってた」
日本サッカーのプロ化という夜明けのときは近かった。1992年9月にJリーグのプレ大会であるヤマザキナビスコカップの開催を控え、93年5月には待望のJリーグ開幕が予定されていた。
もっとも、岩本が入社する直前の91年2月14日に発表されたJリーグ参加10団体の中に、フジタサッカークラブの名前はなかった。
「でも、Jリーグに参戦できないことは気にしなかったな。俺が高3のとき、カズさん(三浦知良)がブラジルから帰ってきて読売クラブに加入したから、試合をよく見に行ったんだ。跨ぎフェイントとか見て、すげえなって。自分がそのレベルにないのはわかっていたから」
経理課に配属、寮生活は「快適」
91年春に入社した岩本が配属されたのは、フジタ工業東京支店総務部経理課だった。
だが、もちろん、経理の仕事を任されたわけではない。
「『岩本くん、段ボール運んできて』とか(笑)。6人ぐらいの部署だった。電話の対応もできないから、俺しかいない場合、電話が鳴っていても出ないわけ。すると、慌てて他部署の人が出てくれた(笑)。挨拶だけはちゃんとやっていたけどね」
寮があったのは、よみうりランド。勤務地は西新宿で、練習場は本厚木だった。毎日スーツ姿で満員の小田急線に揺られて出社すると、その2時間半後には会社をあとにし、練習に向かった。
「フジタ工業ってゼネコンだから、寮もすごくきれいで、快適で。初めての寮生活だから、新鮮だったね」
寮で親しくしていたのが、1つ上の名良橋晃だった。