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「八百長は絶対許さない」石原慎太郎が極度に嫌ったこと「あんな相撲がどうして国技なのか」相撲協会と告訴寸前までいったトラブル
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/03/12 17:05
今年2月1日、89歳で亡くなった石原慎太郎。1956年に『太陽の季節』で芥川賞受賞、東京都知事や運輸大臣などを歴任。一時期、全日本キックボクシング協会のコミッショナーを務めた
日本テレビ系と東京12チャンネル系の合併なのだから、会社としての格、歴史などから、日本テレビ系が主導権を握ってしかるべきと思うが、実際そうはならなかった。東京12チャンネルを背景にした岡村プロの強引さが目に余るようになっていたと、当時の関係者は口を揃えて言う。選手のランキングやマッチメイク、興行のプロモートに関することである。「日テレが12チャンネルに手玉に取られている」という評判は、ごく限られた組織の話とはいえ、当の日本テレビからすれば沽券に関わることで、決して看過出来ない事態だったのである。
そこで日本テレビは、正式に協会を発足するにあたって、懸案となっていたコミッショナーの人選において、意向を反映しやすい人物を担ごうと考える。そのとき、日本テレビのある社員の高校時代の同級生が、政治家夫人になっていることが判った。その政治家こそ、現職の参議院議員だった39歳の石原慎太郎だったのである。
「八百長は絶対許さない」
3年前の1968年夏の参議院選挙で全国区で出馬した石原慎太郎は、高い知名度を生かしトップ当選、晴れて政治家となった。以降は作家と参議院議員の二足の草鞋を履いた。
その石原慎太郎に日本テレビは、夫人を通してコミッショナー就任の打診をすると、石原は引き受ける代わりに次のような条件を出してきたという。
「何であろうと格闘技なのだから、選手たちのためにも八百長は一切しないこと」
事実、コミッショナーの就任会見の席上においても「中国と台湾みたいで、ファンにとってはまぎらわしいが、いずれは統一されねばならないと思う」と日本キック協会との関係に言及しながら、こう言い切った。
「八百長は絶対許さないというのが大原則だ。スポーツは純粋な意外性を追求するもので、プロットとかフィクションがあったら、それはスポーツではない。私はスポーツのコミッショナーに就任したのだ」(1971年9月30日付/デイリースポーツ)
もちろん、これはライバル団体である日本キック及び、そのエースである沢村忠、仕掛人たる野口修に向けられたものと、誰もが受け取ったが、実を言うとそれだけではなかった。当時、全日本キック協会のテレビ中継で解説を担当していた安部直也こと、のちのベストセラー作家の安部譲二は、生前、筆者の質問に対し「全日本だってフェイクは山ほどありました」と証言している。
繰り返すが、後発のテレビ局がTBSの人気に倣ってキックボクシング中継を始めたのは、あくまでも視聴率が欲しかったからで、それ以外の理由はなかった。テレビの仕組みと成り立ちを思えば当然のことである。つまり、石原慎太郎の発言は、キックボクシングという新興のプロスポーツ全体に向けられたものだったのだ。
石原慎太郎vs相撲協会「あんな相撲がどうして国技なのか」
これまで、彼が歩んで来た軌跡を眺めるに、「八百長禁止」の条件は大いに首肯できる。生まれて初めてのボクシング観戦で胸をときめかせはしたが、後年「中学生のときに見たピストン堀口の試合はそうではなかった」と確信した折に抱いたはずの落胆。清貧なボクサーと八百長を強要するプロモーターの確執を描いたアメリカ映画『罠』の影響。昭和30年代のボクシング界における、興行やプロモーターの論理に支配される選手の姿。そして映画『若い獣』の上映をめぐる諸々のトラブル……。