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「八百長は絶対許さない」石原慎太郎が極度に嫌ったこと「あんな相撲がどうして国技なのか」相撲協会と告訴寸前までいったトラブル 

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2022/03/12 17:05

「八百長は絶対許さない」石原慎太郎が極度に嫌ったこと「あんな相撲がどうして国技なのか」相撲協会と告訴寸前までいったトラブル<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

今年2月1日、89歳で亡くなった石原慎太郎。1956年に『太陽の季節』で芥川賞受賞、東京都知事や運輸大臣などを歴任。一時期、全日本キックボクシング協会のコミッショナーを務めた

 プロボクシング元WBA世界フェザー級王者の西城正三。彼のキックボクシング転向を最初に報じたのは、1972年4月5日付のスポーツニッポンである。一面に大きく「西城キック転向 第1戦は王者・沢村忠を希望」とサンドバッグにキックを放つ西城の写真とともに載せた。

 このプランは西城の所属する協栄プロモーション代表の金平正紀と、当時、TBS運動部長だった森忠大の間で極秘に進められていた。その詳しい経緯は拙著『沢村忠に真空を飛ばせた男』を読んでいただくとして、当初、西城に用意されたポジションは「第二の沢村忠」「沢村忠に次ぐキックのニュースター」という立ち位置だった。

 その後、金平正紀の目論見を察知した野口修による猛反撃で、想定外の出来事が次々に起こり、西城正三のTBS登場の内約は反古となった。テレビが付かない状況で各地を転戦した西城正三を擁する協栄プロモーションは、程なく東京12チャンネルと契約を結ぶに至る。漁夫の利を得た東京12チャンネルは、自社のコンテンツである全日本キックのエースに西城を据えようと企図したのである。

 日本キックの後塵を拝していた全日本キックにとって、西城正三の存在は願ってもないものだった。人気も知名度もある。天性の甘いマスクもある。さらに真剣勝負の実力も折り紙付き。何せ世界王座を五度も防衛しているのだ。“不測の事態”が起きようとも、対応は可能だろう。

 このとき、東京12チャンネルはコミッショナーである石原慎太郎にこう具申したという。石原自身の回想から引用する。

「さきに国際式から引退したSSを第二のSTに仕立てて稼ぎたいので、どうか了承してほしい」(『わが人生の時の人々』文藝春秋)

 それに対し、石原慎太郎はこう返した。

「テレビ局の利害もわからないではないが、もしそれでいくなら私はコミッショナーを辞任し、辞任の記者会見の席で辞任の理由についても言及してやめるから」(同)

 もちろん、真剣勝負しか認めない石原自身の志向もあったろうが、先に触れた通り、日本テレビから推戴されてコミッショナーになった経緯と自身の置かれた立場、さらに、面子の問題もあったのだろう。「好き勝手な12チャンネルに、今こそお灸をすえてやろう」という底意もなくはなかったかもしれない。

石原慎太郎の89年「格闘技の功労者だった」

 結局、西城正三は全日本ライト級王者の藤原敏男と真剣勝負で戦い、3RTKOで敗れる。完敗を喫した西城だったが、後にタイ人以外で初のタイ式ボクシング王者となる実力者の藤原敏男を相手に、西城は慣れないルールで本当によく戦ったと筆者は思う。個人的な所感ではあるが、筆者は最大限のリスペクトを抱いている。

 いずれにせよ、この試合の意義は、ボクシングの世界王者だった西城正三が、純粋なキックボクサーの藤原敏男に敗れたというだけのことではなかった。「作られたスターでも真剣勝負の前では呆気なく敗れる」という、これまでキック界の通弊だった“沢村忠的世界観”の敗北でもあった。同時に真剣勝負を前提とする、現在のキックボクシングの競技化の第一歩だったと見ていい。そこに、石原慎太郎は大きな役割を果たしたことは、特筆されるべきだろう。

【次ページ】 石原慎太郎の89年「格闘技の功労者だった」

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