格闘技PRESSBACK NUMBER
「八百長は絶対許さない」石原慎太郎が極度に嫌ったこと「あんな相撲がどうして国技なのか」相撲協会と告訴寸前までいったトラブル
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/03/12 17:05
今年2月1日、89歳で亡くなった石原慎太郎。1956年に『太陽の季節』で芥川賞受賞、東京都知事や運輸大臣などを歴任。一時期、全日本キックボクシング協会のコミッショナーを務めた
さらに、1963年には、「八百長」をめぐる騒動まで起こしている。大相撲秋場所の千秋楽。全勝同士の両横綱、大鵬と柏戸がぶつかった。結果は柏戸がもろ差しからの寄り切りで大鵬を下し、初の全勝優勝となったが、これに、翌朝の日刊スポーツのコラムで、石原は“物言い”を付けたのだ。
《見る人間が見ればわかるよ、相撲協会さん。千秋楽の優勝決定、よみがえった柏鵬激突の一戦とか称するしろもの。あれは一体何ですかね。(中略)
それじゃあ証拠はあるのかと開き直られれば、証拠はない。大鵬、柏戸二人の内、どちらかが口を割らなけりゃ白黒はつかない。しかし、あの日国技館へ満員につめかけた観客と、それよりもっと冷静で目のとどくところに坐っていたテレビの数百万の観客がいる。(中略)
あんな相撲がどうして国技なのか。あれが日本の精神ですか。尊い国歌をあんなつまらぬ八百長のショーの後にぬけぬけと歌わないでくれ》(1963年9月27日付/日刊スポーツ)
これに激怒した日本相撲協会は、石原慎太郎を名誉棄損で告訴すると息巻いた。また、右翼の大物からは「見つけ次第殺す」という脅迫文まで届いたという。大映の社長で裏社会にも通じた永田雅一や、横綱審議委員会に名を連ねた先輩作家の舟橋聖一らのとりなしもあって、《客観的事実としてあの一番に対する私の主観的批評は別として、協会の直接工作云々の部分については、その基底になる証拠知識は私にはなかった。(中略)協会の実際上の抗議に関しては私は非を認める》(1963年11月10日付/日刊スポーツ)と謝罪文を載せたことで、どうにか一件落着となった。ともあれ、八百長に対し拭い難い嫌悪感があったことだけは間違いない。
その石原慎太郎が、全日本キックボクシング協会のコミッショナーを引き受けるというのは、業界の通弊さえも覆す意志を含んでいたということだったのだ。事実、筆者は次のような証言を聞いた。
「慎太郎さんがコミッショナーになってから、明らかに怪しい試合は減りました。というのもあの人は、そういう試合があると、控室まで行って直接問い質すんです。自分で行って確認するんですよ。それはテレビ屋に対するプレッシャーでもありました。『俺から頼んでコミッショナーをやってるんじゃねえ。だから俺の好きにやらせてもらう』ということです」(当時、全日本キックボクシング協会事務局長だった清水巌)
「それでいくなら私はコミッショナーを辞任する」
そんな折、全日本キックにエース候補のスターが現れるのである。