ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「小鹿さんが日本刀をコートの懐に忍ばせて…」アントニオ猪木の付き人だった藤波辰爾が明かした、新日本旗揚げの“壮絶な舞台裏”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/03/01 06:00
50年前の新日本プロレス設立当時の波乱万丈をアントニオ猪木(右)の付き人だった藤波が語った
当時、猪木の付き人だった藤波は、異様な状況をこう語る。
「猪木さんが追放されたあと、ほかの選手たちは明らかに僕ら(猪木派)のことを違う目で見ていました。だから、猪木さんが解雇になってすぐ、山本小鉄さんも日本プロレスを辞めたんですよ。いづらいというか、身の危険を感じるくらいの世界だからね。僕も猪木さんの付き人だったので、合宿所を出る決意をしたんだけど、もう命からがらですよ。
僕は猪木さんのガウン、リングシューズ、練習道具などすべてを持っていたから、それをスーツケース4個に詰めて、いっぺんに持って逃げたからね。あれこそ火事場の馬鹿力。抜け出すところを先輩レスラーたちに見つかったら、半殺しでは済まない。だから僕ら猪木派は円満に独立するとか、そういう感じは一切なかった。へんな話、当時のプロレスの新団体旗揚げというのは、敵対する“組”が立ち上がるような感じすらあったんですよ」
日本刀をコートの懐に忍ばせて殴り込み
“悪者”に仕立てあげた猪木を追放するだけでなく、配下選手たちにもさまざまなかたちで圧力をかけてきた日本プロレス。それでも猪木は自身の新団体設立を決意。除名処分となった翌月、72年1月26日に新日本プロレス設立を発表した。
「新団体旗揚げを決めたあと、猪木さんはよりによって代官山の日本プロレス本社の斜め前に新日本の事務所を構えたんですよ。そんなことやらなきゃいいのに(苦笑)。自分を追放した人間たちに対する意地だったんだろうね。僕は日プロの合宿所を抜け出したあと、住む場所がなかったので、しばらくその事務所で寝泊まりしていたんです。
そしたらある日、日プロのグレート小鹿さんや林牛之助(ミスター林)さんらが殴り込みに来てね。僕は奥の部屋にいたんだけど、事務所の社員に『いま、出ていかないでください』って言われて隠れていた。小鹿さんたちも一般人である事務員には手を出せないけど、レスラーが出ていったらやられちゃうってことでね。だって、日本刀を持って殴り込みに来たって言うんだから(苦笑)。その時、山本小鉄さんは営業でいなかったからよかったけど、いたら事になってたと思う。プロレスのイメージが地に堕ちるところでしたよ」
マスコミ、プロモーター、海外まで封じ込められた
この時、ちょうど冬場であり、小鹿は実際にスポンサーから預かっていた日本刀をコートの懐に忍ばせて新日本の事務所に乗り込んできたのだという。あまりにも物騒な話だが、日本プロレスは力づくでも、猪木の新団体を潰そうとしていたのだ。その後も、さまざまな方法で新日本を封じ込めようとしていく。
「まず、日本プロレスがマスコミに圧力をかけたから、記者会見をしても記者が全然来なかったし、新日本の記事はスポーツ新聞にもほとんど載らなかった。また、プロモーターにも日プロから『新日本の興行を買ったら、うちは売りません』というお達しが行っていたので、一切興行を買ってくれなかった。だから、新日本は手打ちで興行を打つしかない状況がしばらく続いたんだよね。
それと同時に海外には、(プロモーター連盟組織である)NWAなどを通じて新日本に協力しないように通達が行っていたから、外国人レスラーを呼ぶこともできない。唯一、猪木さんの師匠でもあるカール・ゴッチの協力で、ヨーロッパの選手を何人か呼ぶことはできたけど、アメリカの選手はまったく呼べなかった。とにかく、旗揚げ当初の新日本は、ないないづくしだったんだよね」